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本田宗一郎の伝記:20代にして修理工場の経営者
本田宗一郎さんの伝記です。
本田宗一郎さんは、1906年(明治39年)、貧しい鍛冶屋の父親の元で生まれました。幼い頃から、農具修理などを手伝っており、学校に通い始める前には、精米機の発動機が動いているのを眺めているだけでご機嫌な子供でした。
小学校低学年の頃、初めて自動車をみたとき、感激した本田宗一郎さんは、地面に落ちた油の匂いをクンクンと嗅ぎ、「自分もいつかは自動車を作ってみたい」という思うようになりました。自動車に対する思いは、その後も日に日に高まり、尋常小学校(現在の中学校)を卒業すると同時に、東京の自動車修理工場である「アート商会」に入社。しかし、なかなか車と関わることはできず、実際は、掃除や子守をする毎日を過ごして1年半だ経った頃、本田宗一郎さんの人生の転機ともなる、関東大震災が起きました。
17歳の1923年(大正12年)9月1日、震度7の大地震が南関東を一円を襲った関東大震災は、14万人を超す死者や行方不明者を出し、被災者も190万人にも及びました。そんな中、本田宗一郎少年は、まだ無免許で初運転でしたが、「アート商会」の工場の指示に従って車を運び出し、オートバイで被災地を駆け巡って荷物を運び、困っている人をサイドカーに乗せました。
そして、震災をきっかけに、自動車修理工場のアート商会の修理工の多くが故郷に帰ってしまったため、晴れて、本田宗一郎さんは、自動車の修理を任されるようになったのでした。この大災害は、本田宗一郎さんの技術者としての人生も運命づけることとなったのでした。
22歳になったとき、本田宗一郎さんは、のれん分けされる形で「アート商会浜松支店」を開業し、たった一人の従業を雇って細々としたスタートを切ります。しばらくは、若造ということで信用もされず、仕事もなかなか来ませんでしたが、他の修理工場でお手上げとされていたものでも、本田宗一郎さんは次々と修理したため、段々と仕事が増えていきました。確かな技術を持つ本田宗一郎さんの店は、口コミでどんどん広がって、依頼も増え続け、工場は拡張し、工場も50人に膨れ上がりました。そして、25歳で、生涯の貯蓄額の目標額としていた1,000円(現在の貨幣価値で215万円程度)を1ヶ月で稼ぐほどになり、20代にして経営者としての富を手に入れました。
本田宗一郎の伝記:資金繰りに追われながらの開発
しかし、28歳になったとき、自動車を作るのが夢であった本田宗一郎さんは、前年に結婚したばかりだというのにも関わらず、修理工場を閉鎖しました。そして、自動車づくりへの思いを胸に、新たに「東海精機重工業株式会社」を作り、ピストンシリングの製造を始めることにしました。ピストンシリングとは、ピストンの外周の溝にはめる輪のことで、シリンダーとピストンの隙間を埋め、気密性を保つことでガス漏れをふせぐという、重要な役割を担う部品です。
しかし、技術に自信のあった本田宗一郎さんでしたが、どうしてもピストンシリングが作れませんでした。連日にわたり、夜中の2時~3時まで実験を重ね、工場の床に敷いたゴザで寝て、伸ばし放題の髪は工員に切ってもらっていたほど、製造に没頭しました。しかし、それでも打開策は見えず、さらに、工員50人を抱え、機械も一新していたため、貯蓄も尽き、妻の持ち物さえ質屋に持っていかなければいけないほど困窮を極め、本田宗一郎さん自身、最も苦労した時期として当時のことを語っています。
そして最終的に、「うまくいかないのは、鋳物の基礎知識が足りないからだ」と考え、浜松工高(現在の静岡大学工学部機械科)に聴講生として通いはじめます。本田宗一郎さんは、全く講義のメモは取らず、ひたすら授業を聞きながら、今得た知識と自分がこれまで失敗した経験を頭の中で照らし合わせて、原因を探り続けました。興味があるのは授業内容だけだったため、筆記試験はすべて欠席していたところ、入学から2年後に退学を告げられますが、その後も、本田宗一郎さんは好きな講義に出ることを止めず、3年間かけて、金属工学の基礎的な技術の知識を習得しました。
こうしてピストリングを製造できるようになった本田宗一郎さんは、さらに独学で研究を重ね、女性でも簡単に作ることができる自動式に改良し、量産できる商品化にまでこぎつけ、終戦までピストンシリングを作り続けました。苦心の結晶である本田宗一郎さんの技術は、自動車だけでなく、海軍の船や飛行機の部品を作るのにも役立ち、軍から表彰されるほどでした。しかし、終戦を迎えると同時に、本田宗一郎さんさんは、東海精機の株を売り払い、一転して無職となりました。子供が3人いたにも関わらず、儲けたお金で新しい事業を始めようと思いつつも、どっぷりと無職生活に浸ってしまいます。
本田宗一郎の伝記:本田技術研究所とバイク
その後、36歳頃の1946年に本田宗一郎さんは、浜松の疎開工場のバラックに「本田技術研究所」を設立して、軍が使用していた通信機の小型エンジンに目を付けます。そして、小型エンジンを買い集めて自転車に付けて走らせる、おもちゃ感覚の新製品を開発しました。この新商品が、ちょうど戦後で交通機関が混乱していたことも功を奏し、飛ぶように売れ、エンジンもなくなってしまいました。それならばエンジンも自分で作ってしまおうと考え、父から譲り受けた山林を売却して資金を作ると、大金をすべてエンジン開発に突っ込み、賭けを挑みました。しかし、この賭けに周囲の批判は強く、「これからは自動車の時代だ」「ガソリン不足の時代にモーターバイクなんか乗るやつがいるか」とダメ出しされます。
しかし、本田宗一郎さんの賭けは大当たりし、月産200~300台から始まった新発明の小型エンジン付きの自転車は、月産1,000台にまで達しました。しかし、エンジンを付けたとはいえ、自転車は自転車なので、もっとスピードと耐久力のあるものの開発を行い、ホンダA型、B型、C型の製作を行いつつ、38歳頃の1948年(昭和23年)に「本田技術研究所」は「本田技研工業株式会社」として名前を変えながら、開発が続けられました。そして、1949年(昭和24年)、ついに、ホンダの代名詞ともなる、初のオートバイが誕生しました。このオートバーは、真っ赤なボディの本格的なモーターサイクルで、「ドリームD型号(通称:ドリーム号)」と名付けられました。そして、ドリーム号が完成した同年1949年に、知人の商会を通じ、金勘定に長けた藤澤武夫さんと出会い、後に「技術の本田、販売の藤澤」とまで呼ばれるベストコンビも誕生しています。
その後、藤澤武夫さんのおかげで技術に専念できるようになった本田宗一郎さんは、無職の間に溜めたパワーを吐き出すかのごとく、オートバイづくりに熱中し、浜松から東京に進出。さらに、従来の2サイクルエンジンとは全く異なる、4サイクルのE型エンジンを開発し、テスト試乗において、自動車でも追いつけないパワフルさを見せて、テストドライバーと、どしゃぶりの雨の中、涙を流して抱き合いました。
しかし、ドリーム号はコストがかかったため値段を抑えることができず、一般庶民の生活に浸透させることは難しいため、エンジンを軽くして自転車補助に使用できるよう考案されたのが、ご存知「カブ」です。カブは、後輪の側面にエンジンを搭載し、駆動系統もすべて後輪周りで完結する構造になっているため、乗り手が操作しやすく、自転車への取付も簡単でした。さらに、純白のタンクに「Cub」のロゴが入った赤いエンジンカバーのデザイン、そして、当時としては画期的だったダイレクトメールを大量発送するという営業方法も手伝って、自転車店からカブの注文が殺到し、ホンダに利益だけでなく、圧倒的な知名度ももたらしました。
1961年(昭和36年)、ホンダのオートバイは、世界中から優秀なオートバイが集まるTTレース(ツーリスト・トロフィー・レース)でも優勝し、さらに、ヨーロッパ各地で開催されたグランプリレースでも優勝を飾り、本田宗一郎の作ったバイクは、名実ともに世界の頂点に輝きました。
本田宗一郎の伝記:四輪車への挑戦
しかし、本田宗一郎さんは、自動車づくりの夢を持ち続けており、オートバイをの開発を重ねつつ、1958年(昭和33年)には、四輪開発の部署を立ち上げ、50代にして、四輪車という、新たな挑戦が始まりました。
本田宗一郎さんは、四輪車の中でも、世界で戦える車を夢見て、スポーツカーの開発を担当し、さらに「今度出す車は、赤でいくぞ!」と決定しました。しかし、当時は、赤は消防車を連想させ、さらに白は救急車やパトカーを連想させるため、使用の禁じられていた色でした。そのため、本田宗一郎さんは新聞のコラムなどを通じて「世界の一流国で、国家が色を独占している例など聞いたことがない」と騒ぎ立てて世論を味方につけ、赤色の使用認可をもぎ取りました。
この頃には、ホンダはバイクメーカーとして有名になってはいたものの、あくまで二輪車という狭い分野に限られており、世界レベルで見ると、ホンダは全く無名の存在でした。そのため、本田宗一郎は、四輪進出と同時に、「観衆の目前でシノギを削るレースこと、世界一になる道だ」と、F1にも参戦し、200馬力を超えるエンジンを開発しました。
しかし、1964年(昭和39年)のF1初参戦となる1年めは、決勝でクラッシュしてリタイアとそなり、無念の惨敗を喫しました。しかし、1965年(昭和40年)の2年めは、燃料噴射装置などを改良して、メキシコグランプリで、見事にホンダマシンは1着を獲得。本田宗一郎さんは、60年の歳月を経て、日本中にF1ブームを巻き起こす経営者となったのでした。さらに、1967年(昭和42年)のイタリアグランプリで2度めの優勝を飾った後、ホンダは1968年(昭和43年)のシーズン終了後に、一時期、F1から撤退しました。しかしその後、1983年(昭和58年)~1992年(平成4年)まで復帰して連戦連勝を重ねて、通算69勝を上げ、ホンダは、F1史上空前のエンジン供給メーカーとして、F1の世界に金字塔を打ち立てたのでした。
そして、本田宗一郎の相方であった副社長の藤澤武夫さんが、後任が十分に育ったと判断して辞任した後、本田宗一郎さんも、67歳頃の1973年(昭和48年)、ホンダ創業25周年の年に引退し、退任の日の言葉で「俺たちは祭りばかりやってきた。お前ら、真面目にやってくれ」と言い残して、引退しました。
本田宗一郎が後継者として選んだ次期社長は、E型エンジンが完成した際に、本田宗一郎と涙を流して抱き合ったドライバーでもあった、45歳の河島喜好(かわしまきよし)さんでした。河島喜好さんは、ホンダが町工場だった時代に初めて大卒で入社した生え抜き社員でもあり、大抜擢で社長となりました。そして引退後、本田宗一郎さんは、カリスマ経営者としては異例なことに、会社の経営には一切、タッチすることもなく、家族を自分の会社に引き入れることもありませんでした。そして、84歳の1991年8月5日、肝不全のため亡くなりました。
本田宗一郎の伝記:まとめ
本田宗一郎さんの伝記を通して分かるのは、自らの夢の実現のために、常に自分のやりたいことを求めてきて、それを実現してきた人物であり、一言で表現するなら「生涯一技術者」とも呼べる人物でした。そのため、「アート商会浜松支店」「東海精機重工株式会社」と次々に開業しては閉鎖し、最終的に、二輪車や四輪車を開発するために「本田技術研究所」の設立へと至っています。
そして、バイク、自動車の開発をただ行っただけでなく、挑戦的な姿勢で、その分野での世界的な業績を成し遂げていったのも、特筆すべき点です。ホンダは、2015年時点で、二輪車の販売台数は世界1位を誇っていますし、四輪車の販売台数は世界7位ではあるものの、F1での圧倒的なエンジン性能から、世界的にも有名なる日本企業の1つとしても知られています。
経営者としての実力は、相方でもあった副社長の藤澤武夫さんに軍配があがるのかもしれませんが、本田宗一郎さんの挑戦的な姿勢は、「挑戦のホンダ、保守のトヨタ」の世評どおり、ホンダという会社を特徴づけ、発展させていった大きな要因と言えるのかもしれません。