稲盛和夫の心

稲盛和夫の心:挫折多き少年期

稲盛和夫さんは、小さな印刷屋を営む職人気質の父と、どんな状況も跳ね返してしまいそうな肝っ玉母さんの元、1932年(昭和7年)に鹿児島県鹿児島市にある薬師町(現在の城西町)で、7人兄弟の次男として生まれました。

小学校の入学初日の頃は、母親がいなくなると泣き出してしまうような寂しがり屋でしたが、クラスに馴染んでくると、友達を引き連れるリーダー役となり、戦争ごっこをするときも、稲盛和夫さんが敵と味方を分けて役割を分担させていました。しかし、リーダーシップを発揮する単なるガキ大将だけではなく、小学生にして仲間の士気を高めることにまで配慮しており「草で勲章を作ったり、おやつを配ったりする気遣いもいる。せいぜい中派閥のボス程度だったが、グループをどう掌握していくかが最大の関心事だった」と考えていました。

そんなアグレッシブな稲盛和夫さんは、中学進学にあたって、鹿児島市の名門である鹿児島第一中等学校の受験を宣言します。しかし、遊びに夢中で勉学もおろそかで、教師にも反抗しては殴られていたため内申書の点数も悪く、入試は不合格に終わりました。

稲盛和夫さんは、かつての子分が鹿児島一中に合格するという屈辱の中、やむなく尋常高等小学校(現在の中学校)に入学。1年後にリベンジで再度、鹿児島第一中等学校を受験しますが、受験前に結核の初期症状である肺湿潤で激しい発熱に襲われ、微熱に苦しみ、またもや受験に失敗します。

そのため、中学進学を諦めて働くしかないと思っていたところ、先生の薦めで、私立の鹿児島中等学校を受けて合格し、渋々ながら鹿児島中に入学することにして、1年遅れでの中学生活が始まりました。

終戦の年である1945年、稲盛和夫さんは中学に入学します。大空襲で、稲森さんの家も含めて多くの家屋が消失し、勉強どころではありませんでしたが、稲盛和夫さんは疎開先から通学し続け、勉強にも熱心に取り組みました。特に、苦手だった数学は徹底的にやり直し、得意科目にしてしまうほどでした。上級生と喧嘩したりするような面も相変わらずありましたが、それでも、もう、勉強をおろそかにすることはありませんでした。

そして、働いて欲しいという家族を説得して、鹿児島市高等学校第三部へ進学。その後の進路には、自分が肺の症状で苦しんだ経験から薬学を学びたいと考えましたが、またもや家族の大反対を受けました。そのため、稲盛和夫も、大学をあきらめて地元の銀行への就職を考え始めていましたが、稲盛和夫さんの兄と、高校の先生が両親に頼み込んでくれました。そして、2人の説得のおかげで、アルバイトや奨学金などを使って家には金銭的に頼らないことを条件に、大阪大学医学部の受験を許されましたが、またもや不合格となってしまいます。

しかし、浪人などできないため、少しでも薬に関われるよう、仕方なく、地元の県立鹿児島大学の工学部応用化学科に進学しました。

以上のように、稲盛和夫さんの心は、中学・大学において、早くより挫折を経験する人生の中で、鍛えられてきました。

稲盛和夫の心:意にそぐわない就職とブラック企業

稲盛和夫さんは、大学4年で、石油化学の分野で就職活動を行いましたが、運悪く、朝鮮戦争による特需も終わって企業も雇用を控えていた時期で、全く内定をもらうことができませんでした。そのため、東京や大阪の会社を訪問するも大苦戦を強いられ、友人のコネを使っても会うことさえかなわず、散々な目に会いました。そんな中、大学の先生になんとか就職口を見つけてもらい、京都の碍子(がいし、ガラス)製造業者である松風工業に入社しました。

しかし、この松風工業はブラック企業で、寮はボロボロで畳すらなく、藁屑の上にゴザを引かなければならない状態でした。また、会社自体も、オーナー一族が内部で揉めており、人間関係はドロドロでした。稲盛はその会社で、特殊磁気であるニューセラミックスを担当しますが、注文も減り、会社業績も悪化し、さらに給料まで遅配する始末で、4人の同期も秋までには3人辞めてしまいます。そこで、もうひとりの同期と相談して、将来性もやりがいもありそうな自衛隊を目指し、一緒に自衛隊の幹部候補学校への願書を出すことにしました。そして、今回は入学試験にも無事に合格し、後は、実家から戸籍謄本が届くを待つだけでした。しかし、戸籍謄本を依頼した手紙を兄が止めてしまっており、戸籍謄本が届くことはありませんでした。兄としては、両親に大学進学を頼み込んだ手前、就職した会社でしっかり働いて欲しかったためでした。その結果、自衛隊学校への募集期限も過ぎてしまい、入学することはできませんでした。

そして、ついに、ブラック企業で1人ぼっちになった稲盛和夫さんは、諦めて、今の仕事で少しでも楽しみを見つけることにしました。

以上のように、稲盛和夫さんの心は、全く思い通りに進まない人生の中で、腹をくくることを決意したのでした。

稲盛和夫の心:腹をくくった社畜時代

稲盛和夫さんは、同期がいなくなってしまったため、開き直り、寮に帰らず、日夜、研究所に泊まり込んで実験を繰り返すようになりました。そして、仕事に熱中して打ち込むうちに、嫌で仕方がなかったこの会社での仕事の面白さに気づき始めました。

そんなとき、松下電子工業から入った注文の原料の合成に1年がかりで成功し、稲盛和夫さんの作った合成フォルステライト磁器が使われることになりました。さらに、黙々と研究を続けることで、自分の研究者としてのレベルもあがり、社内の先輩の研究者の存在にも目がいくようになり、励みとなりました。

フォルステライト磁器の事業化により、稲盛和夫さんは、新しく創設された特磁課の実質的なリーダーとなりました。そんな折、m不振だった碍子部門の余った人が特磁課に回される案がでましたが、稲盛和夫さんは、モチベーションを大事にしたかったため、他部署から渋々回されてくる人たちを集めるのではなく、京都の職安で探すことにしました。そして、連れてきた人に対して、セラミック部品の素晴らしさと社会への貢献している自分たちの仕事の意義について、時に深夜まで熱弁を振るいました。両親への仕送りと飲み代で生活は苦しかったものの、今の仕事を素晴らしさを伝えたくて、仕事が終わると積極的に部下を飲みに誘っては、コミュニケーションを図るようにもしていました。

以上のように、稲盛和夫さんの心は、開き直ったことで仕事の楽しみややりがいを発見する、ある意味、理想の社畜のようなものとなっていきました。

稲盛和夫の心:流されての創業

稲盛和夫さんが主任になって3ヶ月後、今まで開発をすべて稲盛和夫さんに任せてくれていた技術部長の青山政次さんが、社長とうまくいかずに辞めてしまいます。そのため、上司に新任の技術部長がつくことになりました。その頃、稲盛和夫さんは、日立製作所から、フォルステライトを使って、セラミック真空管を作れないかというオーダーを受けていました。しかし、なかなか日立が求めるレベルの製品ができず、四苦八苦していた折、新任の技術部長に「お前さんではもう無理だ。他の技術者を入れてセラミック真空管の開発をする」と言われました。その無礼な一言に、稲盛和夫は覚悟を決めて「それでは会社を辞めます。今日限りで辞めます」と伝えました。

役員たちは驚き、稲盛和夫さんの退職は慰留されますが、稲盛和夫さんの決意は固く、退社することにあります。後先考えない突然の退社でしたが、それを聞いた特磁課の部下たちが寮に押し寄せ、「自分たちも辞めてついていく」と言い出し、さらに、前任の技術部長だった青山政次さんも、稲盛和夫さんの優秀さを電機メーカーの知人にアピールして、出資をとりつけました。

こうして、27歳時の1959年、稲盛和夫さんは、8人のメンバーで会社を起こして、京都セラミックを創業しました。そして、青山政次さんの説得で筆頭株主となってくれた宮本男也さんが社長に就き、専務には青山政次さん、そして取締役技術部長には稲盛和夫さんが就任しました。他の5人は、21歳~25歳で若い人ばかりでした。

以上のように、稲盛和夫さんの心は、社畜時代に培った人望により、道は途切れることなく続くのでした。

稲盛和夫の心:反乱された社長

「京都セラミック(京セラ)」は、稲盛和夫さんのセラミックの技術を世に問うために創業されたベンチャー企業でした。しかし、松下工業がテレビ用のフォルステライト磁気製品を大量発注してくれ、稲盛和夫さんを始め創業メンバーも連日の徹夜作業も厭わなかった結果、創業1年で売上高2,600万円、経常利益300万円の黒字決済となりました。

しかし、創業3年めにして、2年めに入社した高卒11人の若手社員たちにより反乱を起こされ、待遇改善の要望書として、定期昇給とボーナスの保証を突きつけられます。京都セラミックでは、深夜までの残業が日常化していたため、せめて、それに見合うだけの保証と報酬が欲しいと訴えました。

しかし、京都セラミックは、未だ走り出したばかりの企業であるため、利益が出ているとはいえ、フォルステライトだけに頼っているという現状で、先のことなど保証できませんでした。そのため、稲盛和夫さんは「実現できなかったらウソをつくことになるから、いい加減なことは言いたくない」と若手たちを説得するも納得してもらえず、稲盛和夫さんの自宅で3日間に渡り交渉は続けられました。そして最後に、稲盛和夫さんは、リーダー格に対し、「もし裏切ったら、自分を刺してもいい」と伝えて覚悟を示し、和解しました。

このとき、稲盛和夫さんは、従業員を雇って生活を支えるという責任の重さを痛感し、翌朝の朝礼で「全従業員の物心両面の幸福を追求すること。人類社会の進歩発展に貢献すること。今後は、これで経営をしていきます」と伝えました。

以上のように、稲盛和夫さんの心は、当初は、会社を通して自分の技術を世に問うだけでしたが、会社を経営するために社員も慮るようになっていきました。

稲盛和夫の心:世界のトップメーカーの下請け

稲盛和夫さんの京都セラミックは、その後も順調に業績を上げ、創業5年めで社員150人を抱える企業にまでなりました。その後は、アメリカにも進出し、稲盛和夫さんの出身地であった鹿児島にも3つの工場を建設するなど、たった5人で始めた会社が、日本有数の大企業へと成長していきます。

そんな中、創業8年目にして、一つの大きな節目となったのが、IBM社から依頼された、IC用の集積回路基盤(アルミナサブストレート)2,500万個の発注でした。当時は年間売上が5億円に上っていましたが、IBMの仕事だけで1億5,000万円の売上になるため、大きな仕事の受注に、工場中が湧きました。しかし、実際に仕事が始まると、地獄のような日々が始まります。これまでの発注とは比べ物にならないほど細かい仕様の指定をされ、寸法の精度も桁違いのものを求められました。そのため、試作品をいくら作っても、IBM側からのOKは出ませんでした。京セラの技術では対応できるか分からないところまで追い詰められ、稲盛和夫さんは、最新機器を購入し、精度測定用の万能投影機や、自動プレス機30台、大型電気炉2基などを整えました。

そんなIBMによる試練の中、稲盛和夫さんは34歳で社長に就任。その後もトライアルにトライアルを重ねて、集積回路基盤の不良品が山のように積み上げられ、現場はその原因に探求に連日、明け暮れました。「ついにIBMが合格を出した!」と喜んだら夢だったこともあり、従業員の中には、「どうしても寸法が合わない」といって、深夜の現場で泣きながらたたずむ者もいました。

そして、ろくに休日のない日が2年半あまり続いた末、ついに合格し、2,500万個の製品を無事に納入。製品テストに合格した上に、量産というハードルも超えることができ、その評判は国外にまで知れ渡るようになり、海外からの注文が急増することとなります。

以上のように、稲盛和夫さんの心は、世界のトップメーカーにより鍛えられ、何物にも代えがたい自信を得たのでした。

稲盛和夫の心:雇用を守った社長

京セラは、その後も絶好調で、年商ではなく月商レベルで、1971年は月商5~6億円、さらに1972年には月商9億8,000万円、1973年には月商20億円を達成しました。そして、1972年には1,300人の従業員に香港旅行をプレゼントし、1973年にはハワイ旅行をプレゼントしました。さらに、1974年には、東京・大阪の両証券取引所ともに一部上場を果たしました。

しかし、一部上場と同年の1974年にオイルショックが起こり、絶好調だった京セラも受注は激減して、仕事は実質半分になります。オイルショックの影響で、他の企業は人員整理に手をつけますが、稲盛和夫さんは、なんとか雇用を守り通し、賃金カットこそやむを得なかったものの、余った従業員には、工場敷地内の草むしりや花壇の手入れにあたらせました。

京セラ創業以来の苦境でしたが、受注は徐々に回復の兆しを見せ、翌1975年には従業員の昇給やボーナスの支給もでき、さらに、株式市場では、ソニーを抜き去り、株価日本一にも輝きました。こうして稲盛和夫さんの京セラは、ファインセラミックの技術を突破口にして、その技術を応用した新製品を世に送り出しては、新しいジャンルを開拓して利益を上げ、名実ともに世界クラスの一流企業へと駆け上っていきました。

以上のように、稲盛和夫さんの心は、苦境を乗り越え、さらに飛躍していきました。

稲盛和夫の心:社会貢献と企業家の育成

京都セラミックの成功の後、稲盛和夫さんは、社会のための事業や、企業家の育成にも力を注ぐようになります。

1983年には、若手経営者の勉強会「盛友塾」を開塾し、その後、「盛和会」と名を変えながら、稲盛和夫さんの高齢化により閉塾となる2019年まで続けられました。

1985年には、電気通信事業の自由化に伴い、「電電公社(現在のNTT)」と「KDD」が独占していた通信事業への参入を決定。同年1985年に「第二電電(DDI)」を創業して参入し、成功を収めます。1997年には、京セラと第二電電の会長を退きますが、2000年に「第二電電」・「KDD」・「IDO」の三社が合併して「KDDI」が誕生し、「KDDI」の最高顧問に就任しました。

1988年には、会社更生法の適用となった複写機メーカーの「三田工業」を「京セラミタ」として子会社化し、わずか2年で更生計画を達成。

さらに、2010年には、経営破綻した「日本航空(JAL)」の会長に無報酬で就任します。日本航空では、全従業員の3分の1に当たる1万6,000人をリストラし、社員の意識改革を行うことで、着任の翌期には黒字を達成し、赤字続きだった日本航空を、たった3年足らずで再上場させました。

数々の困難に打ち勝ってきた稲盛和夫さんの心や経営手腕は、自著による啓発書や経営書を通して多くの経営者へと浸透し、稲盛和夫さんは、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助にあやかって、「新・経営の神様」と呼ばれています。

稲盛和夫の心:まとめ

稲盛和夫さんは、独自に開発した経営管理手法である「アメーバ経営」でも有名な方です。アメーバ経営とは、6~7人の小集団「アメーバ」という組織単位を作り、組織単位で採算の最大化を図る手法で、京セラや第二電電でも適用されていました。

一方、稲盛和夫さんの人生を見てみると、同じく肺湿潤で中学時代に留年した、サントリー2代目社長の佐治敬三さんも思い起こされますが、稲盛和夫さんの不運は、それにも勝る不運の歴史であったと言えます。さらに、社会人として稲盛和夫さんの経歴も、ブラック企業の社畜や、大手会社の下請け会社の社長であったと見なすこともでき、華々しさには欠けます。稲盛和夫さんの創業した「京都セラミック(京セラ)」も、会社の名前こそ有名であるものの、どのような物を作っている会社か、知らない人も多いでしょう。

そのため、創業者の中でも、自らのやりたいことを突き詰めてきた、ソニーの井深大さんや、ホンダの本田宗一郎とは異なる、独特な創業者です。かといって、稲盛和夫さんは、トヨタで初めて創業者の血族以外で社長となった、サラリーマン社長の奥田碩さんのような豪腕でもありません。稲盛和夫さんの経営手法は、組織を重視したものとなっており、その成功も、セラミックの新しい技術を皮切りにし、関連した新技術を開発して業務を拡大させていくという、地道な実績の積み重ねによるものであるため、特異な創業者として位置づけらます。そのような生き方が、組織の中で生きる多くの社会人により、支持を受ける要因となっているのかもしれません。

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