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奥田碩とは
奥田碩とは、「おくだひろし」と読み、トヨタ自動車の元社長です。奥田碩さんは、世界的な自動車メーカーとなったトヨタ自動車が凋落し、さらにバブル崩壊で業績も低迷した時期に、トヨタの威信を回復させました。
奥田碩とは、戦前である1932年生まれで、2019年で87歳になります。奥田碩さんは、次のような特徴のある人物です。
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それぞれについて、説明していきます。
奥田碩とは:1.何も変えないことが最も悪いことだ
奥田碩とは、「1.何も変えないことが最も悪いことだ」と考える人です。奥田碩さんの祖父や父親は、証券会社を営んでおり、三重県の裕福な家庭で生まれ育ちました。しかし、第二次世界対戦で実家が消失して全財産を失い、家業も破綻したため、戦後は、高校の修学旅行にも参加できないほどの貧しい生活を送りました。そのため反骨精神も強く、一橋大学商学部を卒業後トヨタに入社して経理畑を歩むも、上司と幾度となく言い争い、「生意気」との烙印を押されてしまいます。そのため、最終的に、17年間担当した経理を自ら退き、40歳時の1972年から6年半、フィリピンのマニラに行き、業績を積み重ねました。そんな折、マニラに出向していた、後にトヨタの社長となる豊田章一郎に見初められ、1982年に豊田章一郎が6代目社長を務めたときに49歳でトヨタの取締役に就任、さらに1992年に豊田達郎が7代目社長を務めたときに59歳でトヨタの副社長となり、日米貿易摩擦に取り組みました。
その後、7代目社長である豊田達郎さんが高血圧で病気療養中となり、1995年8月に、当時副社長であった奥田碩さんが8代目社長を引き継ぎます。豊田の血縁者以外がトヨタの社長になるのは、実に28年ぶりのことでした。奥田碩さんは、その後「豊田家への大政奉還」と呼ばれる2009年の第11代目社長の豊田章男さんの就任までの14年間、3代続く非創業家メンバーの社長時代を築き上げた最初の人物で、自らが1995年8月~1999年6月まで社長を続けた後も、1999年6月~2006年6月まで会長職に残り、影響力を残し続けました。
奥田碩さんが社長職をついだのは、次のような「三大トヨタ危機」のうちの、第二次トヨタ危機の時期です。
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トヨタというと、世界的企業であるため破綻とは無縁のように思われがちですが、実は、幾度となく危機的経営状況を迎えています。そしてそのたびに、豊富な人材の中から傑出した人物が現れ、「トヨタ生産方式」や「量より質への転換」といった大きな舵取りの変更を行いながら、その危機を乗り越えてきました。そして奥田碩さんは、第2次トヨタ危機を救った中心的人物として、脚光を浴びています。
奥田碩さんがトヨタをついだ時は、次のような困難に直面した時代でした。
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第2次トヨタ危機の時期は、円高で海外でのトヨタ車の売れ行きも落ちていた時代でした。さらに1993年~2002年のバブル崩壊による「失われた10年」や、1991年~2010年のバブル崩壊も含めた日本経済低迷期の「失われた20年」の真っ只中でした。第2次トヨタ危機の初期に社長を務めていた豊田達郎さんは、1995年2月の決算発表で、この時期を「第2の創業期」と呼び、危機感を募らせており、トップシェアが40%を切る瀬戸際で、1996年には実際に国内シェア40%を切る事態にまでなりました。しかし、具体的な改善策を打ち出せない状態が続いた中、豊田達郎さんは、病に倒れてしまいます。
そのため奥田碩さんは、副社長の身でありながら、1995年の日米貿易摩擦への対応を、政府と共に行うことになりました。特に当時の対米貿易黒字は、3分の2以上を自動車が占めていたため、自動車貿易の不均衡の解消が、課題として掲げられており、もし交渉が決裂すれば、法外な報復関税をかけられる可能性もありました。局面の打開は困難を極めましたが、日本の自動車メーカーが現地生産の拡大を行うことを提案して、妥協を図ったことにより、何とか土壇場で制裁を回避できたのでした。
そして、日米貿易摩擦の交渉が終了した直後、経理畑出身の奥田碩さんが、トヨタの再生を目指して社長として就任しました。奥田碩さんがトヨタで成し遂げた偉業は、主に、次の2つに分けられます。
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「1.グローバル化戦略」とは、先ほどの説明の通り、海外の生産拠点を拡大し、現地生産・現地販売を推進する戦略です。グローバル戦略により、全体的なトヨタの売上の底上げを狙いました。
「2.新商品開発戦略」とは、新商品としてハイブリッドカーである「プリウス」を実用化したり、若者向けの新商品を開発する戦略です。新商品開発戦略により、国内シェアの回復を狙いました。
奥田碩さんの持ち味は、スピード感のある経営です。そのため、社長に就任すると早速、「何も変えないことが最も悪いこと」「トヨタの敵はトヨタ」をスローガンに、前例に囚われない経営を行い、トヨタのグローバリゼーションを目指して、1996年に「トヨタ2005年ビジョン」を打ち出しました。
「トヨタ2005年ビジョン」の概要は、生産拠点を海外に作り、輸出ではなく現地生産をメインにすることで、円高による売上の減少に対応するというもので、日米貿易摩擦の打開案にもそぐう内容でした。「トヨタ2005年ビジョン」では、特に、アメリカ、タイ、アルゼンチンを中心とした各市場での急速な拡大を目指しました。そして、このビジョンを達成するために、2002年には世界規模の経営計画として「グローバルマスタープラン」を作り、さらに、目標達成のための管理体制として、2005年には「グローバル・プロフィット・マネージメント」を取り入れました。
また同時に、徹底的なコスト削減を目指し、生産費を安く抑えました。コスト削減では、製造方法から変えてしまう抜本的な改革が行われ、車のコンポーネントやシステムを統合して、今までの半分のコンポーネントやシステムにまとめあげ、大幅な効率化が図られました。その結果、今までの単純化や原材料の引き下げでは成し得なかったような、革新的なコスト削減を実行することができました。
この奥田碩さんによる、海外生産拡大による海外への販売戦略と、原価抑制による低価格化が、国内経済の低迷期であった当時の時代にうまくフィットしました。そして、特にアメリカでの売上の増加をもたらし、2003年にはアメリカの若者向けに販売された「サイオン」で成功を収め、2008年にはGM(ゼネラルモーターズ)やVW(フォルクスワーゲン)を抜き、悲願でもあった世界一の自動車会社としての座を獲得することができたわけです。
トヨタのような大企業になるほど、素早い柔軟な舵取りは困難になりやすく、特に日本の家電メーカーを見れば、時代の潮流に合わすことができずに失敗したケースは、無数に存在します。一方、そんなトヨタの強固な経営陣を物ともせず、「何も変えないことが最も悪いことだ」と考え、積極果敢な経営でグローバル化に拍車をかけた奥田碩さんの経営手腕は、高く評価されているわけです。
奥田碩とは:2.期限を早めると、攻撃的な仕事ができる
奥田碩とは、「2.期限を早めると、攻撃的な仕事ができる」と考える人です。奥田碩さんは、歯に衣着せぬ言動からも分かるとおり、気の短い面もあります。そのため、車の運転でもスピード狂なところがあり、先行者がいると車間距離を詰めてパッシングの連続で押しのけたり、高速道路を160キロ以上のスピードで走っていたことを明かし、「役員車はゆっくり走るので、イライラして苦痛を感じる」と漏らしたこともあります。
以上のような奥田碩さんの短期な性格からも類推されるように、奥田碩さんの戦略は、実行の速さに特徴があります。この頃のトヨタは、国内シェア4割を切る可能性もあった危機的状況でした。トヨタは、全てが平均以上でトータルバランスと信頼性に優れた車をベースにして、さらに「+α」としての魅力を加える「80点+α主義」でカローラ開発しました。そして、1966年よりカローラを販売して国民車としての地位を確立し、1971年には国内シェア40%越えも達成しました。しかしその後、他社の猛追随により、1995年には国内シェアは40.0%となり、1996年には、ついに4割を切ってしまうという状況に陥りました。
「シェアが4割以上も必要なのか?」と思われがちですが、経営戦略で有名な「市場占有率の科学」とも呼ばれる「ランチェスター戦略」によれば、首位独走の状態でナンバーワン戦略を用いることのできる条件は、シェア4割以上(41.7%)です。そのため、40%を切ると、安定的な成長を望めなくなってしまいます。トヨタ自動車も1996年には国内シェア40%を切ってしまいましたから、いつトップシェアを維持できなくなっても、おかしくないような状態が続いたわけです。そのため、いかに早く国内シェア4割を取り戻すかも、奥田碩さんの急務となっていました。
そして、奥田碩さんのとったスピード感あふれる新商品開発戦略の柱が、次の2つでした。
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「1.ハイブリッドカー「プリウス」の開発」は、ハイブリッドカーの開発という、当時の日本の自動車会社ではコンセプトはあったものの、どこの会社も実用化にまで至っていなかった、新しいジャンルの開拓のことです。奥田碩さんは、プリウスの開発に多くの人材と予算をつぎ込み、一気に販売を実現しました。世界初のハイブリッドカーとして誕生した「プリウス」は、次のような流れで販売にまでこぎつけています。
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プロジェクト名の「G21」は、地球を意味する「Global」と21世紀を意味する「21」より名前を取って、「G21」と名付けられました。そして、リーダーには、後にトヨタの会長となる内山田竹志さんが任命されました。当初は「21世紀に先駆けて出す車なので、1999年までに開発させればいいだろう。正確には21世紀は2001年からだから、2001年までに販売できれば大丈夫だろう」と、楽観的に考えられていました。しかし、突如、G21で開発中の次世代車をハイブリッド車にして、燃費も従来の2倍にするよう指示が下りました。
しかし、ハイブリッドは全く新しいシステムだったこともあり、1995年10月にプリウスのプロトタイプを東京モーターショーに披露した時点でも、試作車は全く動いておらず、49日かけてようやく5m動くような出来でした。そんな折、奥田碩さんの指示で、さらに販売時期が1年間早められ、京都の国際環境会議であるCOP3の開催に合わせ、1997年中に発売することが決まったのでした。
元々、トヨタは、他社が新開発した商品の動向を見ながら投入を決めるタイプの企業であり、新しい分野にチャンレンジするのはホンダが得意としていました。一方、奥田碩さんは、今までのトヨタの体質を壊し、「2番手ではダメで、1番手になる」ということを目指しました。新開発の車の名前である「プリウス」は開発当初より決まっており、「~に先立って」という意味を持つラテン語です。そのためプリウスは、その車の名前の由来のとおり、奥田碩さんが目指していたトヨタの新しい姿の象徴でした。
しかし、やっと500m動いた車を、2年で製品化するのは容易なことではありません。そのため、複数の課題を同時並行でこなしていくサイマルテニアスエンジニアリング(SE)方式を取り入れ、開発の当初から、工場生産に携わるスタッフも計画に加わり、現場の要望も取り入れながら開発が進められました。そのようなギリギリの開発状況が続き、ついに、車体価格も「カローラの50万円高」よりさらに安い、215万円という車体価格を実現しました。そして1997年12月10日、ついに初代プリウスがラインオフされたのでした。
欧米の自動車メーカーは、ハイブリッドカーの登場について、当初は静観しており、「究極のエコカーは、電気自動車か燃料電池車(EV、たとえば水素燃料電池自動車など)」と考えていました。しかし、ようやく欧米のメーカーもトヨタの驚異に気づきはじめ、1998年になって、GM(ゼネラルモーターズ)は電気自動車とハイブリッドカーのコンセプトカーを出品しました。そして同年、フォードやクライスラーもハイブリッドカーのコンセプトカーを並べたものの、結局、販売にまでは至りませんでした。
一方、国内外のハイブリッドカーの販売は、次のように続いていきました。
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ホンダや日産もハイブリッドカーを開発しましたが、すでにトヨタがエコカーの地位を確立していたため、ほとんど話題にはなりませんでした。一方、トヨタは、燃費が悪いとされていたミニバンにもハイブリッドを搭載して、エスティマハイブリッドを販売。さらに2代目プリウス以降は、エコロジーに関心のあるレオナルド・ディカプリオなどのハリウッドスターがアカデミー賞にプリウスで乗り付けて話題となり、さらに地位を盤石なものとしていきました。
ただし、プリウスは、利益率は低く、材料費や生産費だけで考えれば採算は取れるものの、開発にかかった資金や設備投資も含めると、当初は大赤字でした。しかし、その後のエコカー分野でトップをひた走ることができたのも、プリウスの開発を早めた奥田碩さんの手腕の上に成り立っているわけです。トヨタは、さらに2014年12月15日には、「燃料電池自動車」としては商業的にある程度成功した初めての車である、水素燃料を用いた「ミライ(MIRAI)」を販売しました。水素を補充できる水素ステーションの普及がなかなか進まないため、燃料電池自動車はまだまだ普及にまで時間がかかりそうですが、税込で723万6,000円で販売されたミライについて、ドイツの自動車メーカーに「ゼロが1個間違っている。7,000万円では?」といわしめるほど、トヨタは電気自動車の分野で突出した実力を誇っています。そして、2016年のトヨタの電動車両の販売数は、国内シェアではなく、世界シェアで43%を占め、圧倒的な優位性を占めるまでに至りました。
「2.若者向けの車の開発」は、奥田碩さんの新商品開発戦略のもう一つの挑戦です。トヨタは、1996年以降国内シェア4割を切ってからというもの、国内市場シェア40%を目標に掲げていましたが、なかなか目標を達成できませんでした。そしてその原因は、20歳代を中心にした若い世代が、トヨタ離れしているのが原因だということも、ハッキリしていました。
トヨタは、「80点+α主義」で国産車としての地位を確立したものの、逆に全てが平均的すぎて、「トヨタは退屈」「個性がない」「車を白物家電化させた」と非難されたり、走行性能で他社より一歩劣るため「目に見えないところで手を抜く」と揶揄されたりしていました。そのため、トヨタ車は「堅実だがおもしろくない」というイメージをもたれやすく、若者離れのひどい状況だったわけです。そして、奥田碩さんは、「若者に弱いトヨタ」という部分にメスを入れ、若者向けの販売にも力を入れました。
まず、新商品の開発として、1998年10月30日にアルテッツァ、1999年1月13日にヴィッツ、2000年2月3日にbBを販売しました。bB開発時は、あまりに斬新なデザインだったため、役員全員が判断に戸惑う中、奥田碩さんが「われわれ(役員)が分からないのだから、きっと若者には分かるんだろう。経営トップが口を出すことじゃない」と述べ、GOサインとなりました。bBの開発では、開発の権限をチームスタッフに与え、さらにスタッフ全員を大部屋に集めて開発することにより、新車の開発に従来4年かかっていたところを、わずか12ヶ月で行うことに成功したのでした。
さらに、若者向けの車の開発と同時に、若者に照準を絞った店舗を展開し、1998年6月、従来の「トヨタオート店」の名称を「ネッツトヨタ店(現在のネッツ店、Netz)」に変更して、キャッチコピー「-Another story-」の元、新たな販売チャンネルとして確立しました。
以上の若者向けの新車開発と、店舗サービスにより、トヨタの20歳代ユーザーのシェアは、1998年の30.8%から、1999年には34.9%にまでシェアを伸ばしました。一方、若い世代より支持のあったホンダや日産は、逆に20歳代のシェアを低下させ、トヨタが若い層の支持も得ることを実現できたわけです。
その結果、トヨタは国内シェアを守ることに成功し、1996年から1998年まで国内シェア4割を切ったものの、1999年には再び40%超えを達成しました。その後、トヨタはホンダの猛追を受けたこともあり、2001年には安くて便利なホンダの「フィット」が発売され大ヒットして、翌2002年には、それまで33年間首位を守ってきたトヨタの「カローラ」が、ホンダの「フィット」に首位を奪われる事態にも見舞われましたが、トヨタのシェア40%を脅かすことはありませんでした。
奥田碩とは:まとめ
奥田碩とは、歯に衣着せぬ言動が多く、「財テクは大嫌いだ」「(リストラに対して)社員に手をかけるなら、まず経営者は自分の責任を取れ」「(格付け機関に対して)何のための格付けか」と正論を堂々と吐き、さらに、実績を出す前の現社長の豊田英二さんの社長就任にも辛辣なコメントをしていたため、アンチが多い人物でもあります。
また、量より質を重視しすぎ、急速な海外生産拠点の拡大を行ったため、2005年に奥田碩さん自ら「トヨタは非常に大きくなって戦線が伸び切っている」「兵站線が伸び切っている」と評したとおり、質の低下が起こり、2009年から2010年にかけてアメリカで起こった、トヨタの大規模リコールの原因を作った面も否めません。その他にも、トヨタの業績がいいにも関わらず、当時トヨタの会長だった奥田碩さんの意向をくんで、景気の冷え込みを理由に2002年~2005年にトヨタが賃金の「ベースアップゼロ(ベアゼロ)」政策の先頭走り、他の企業もトヨタに習ったため、社会全体が賃金抑制の流れとなったこともありました。また、スポーツタイプの車種を全廃した戦略も、トヨタファンによる不満の声は多く、現社長である豊田章男さんがスポーツタイプの「スープラ」の販売を再開したときには、大きな話題となりました。
しかし一方で、奥田碩とは、豪腕で名を馳せ、第二次トヨタ危機をスピード感あふれる経営で救った、バブル崩壊時代の寵児でもあります。奥田碩さんが社長に就任をした頃の、1994年度のトヨタの年間売上高は8兆円でしたが、会長職から退任した約10年後の2006年度の売上は24兆円近くにまでなりました。また、もちろん、奥田碩さんの業績は、先に書いたものだけでなく、次のようなものもあります。
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以上のような、奥田碩さんの攻めの姿勢は高く評価され、1997年には、アメリカの「ビジネスウィーク」誌で、世界最優秀経営者の1人に選ばれました。また、1998年から2006年までは、日本の財界トップとも言える日本経済団体連合会会長(日経連会長)も務めました。奥田碩さんの手法は「奥田イズム」と呼ばれることもあり、トヨタをグローバルな企業にしたサラリーマン社長ということで、その経営手腕を高く評価されることも多く、特にエリートビジネスマンの間で人気のある人物です。
また、奥田碩さんを見ていると、トヨタという企業自体のおもしろさも味わうことができます。トヨタのおもしろいところは、昨今のGAFA(Google、Apple、Facebook、Amazon)に代表されるようなインターネット関連事業ではなく、物を扱っているため、一般的な会社の経営と通ずる点も多いという特徴があります。そのため、トヨタで用いている「トヨタ生産方式」なども、一般のビジネスマンに馴染みやすく、人気があるのかもしれません。また、トヨタはグローバルな市場で戦っているため、円高やリーマンショックの影響も直で受けており、その海外経済への対応策なども鑑みると、学ぶことの多い会社といえます。
今後のトヨタは、自動車業界の2大驚異である「自動運転」と「カーシェア」に立ち向かっていかなければならず、新たな正念場を迎えています。「自動運転」の分野では、アメリカのテスラ、ウーバー、Googleがしのぎを削っています。また「カーシェア」や「ライドシェア」の分野では、カーシェア文化の普及している中国において、最大手の「滴滴出行」がシェアを伸ばし、さらに、2019年2月には、中国の中古車業界最大手である「車好多集団」がソフトバンクより15億ドル(1,660億円)の出資を受けて、新たにカーシェア業界に参入することが報じらました。
一方のトヨタは、2018年4月に、世界31カ国のカーシェア会社によって作られた「洪流連盟(Dアライアンス)」に参加し、2019年2月には、トヨタとソフトバンクによる共同出資により、自動運転も視野に入れた「MONET(モネ テクノロジー)」を設立しています。トヨタも、黙って状況を静観することはないでしょうから、今後、どのような傑出した人物がトヨタから現れ、自動車業界を変えていくか、期待の高まるところです。