安藤百福とチキンラーメン

安藤百福とチキンラーメン:5カ条のご製麺

安藤百福さんは、47歳のとき、理事長となった信用組合が破産し、その責任を取る形で無一文となったとき、新しく事業を始めるにあたり、チキンラーメンの開発を行いました。

安藤百福さんがチキンラーメンを開発するきっかけとなったのは、戦後の食糧不足の中、ラーメンを食べるために並んでいた行列の光景が、心に残っていたためでした。そのため、日本の食生活に貢献できるよう、いつかはラーメン作りをしたいと考えており、無一文となった47歳のとき、ついにラーメン作りに乗り出します。

安藤百福さんは、ラーメンの開発において、次の5つの条件を満たせば、広く人々に浸透すると考えました。

  1. おいしいこと
  2. 安全であること
  3. 簡単に調理できること
  4. 価格が安いこと
  5. 常温で長期保存できること

そして、自宅の裏に研究小屋を立て、中古の製麺機を買ってきて、そこでラーメンの研究をはじめます。夜明けから夜中の2時まで働き詰めの毎日を送り、平均4時間の睡眠で、1日も休むことなく研究を続けました。

安藤百福とチキンラーメン:スープの味

ラーメンの麺の歯ごたえや舌触りは、すぐに納得するものができました。しかし、1つめの難関は、スープでした。

牛から作ったスープだと、どうしても味がしつこくなり、スープがうまくいきませんでした。そんな最中、安藤百福さんは、栄養のある鶏をなんとか、安藤百福さんの次男に食べさせたいと考えていました。しかし、次男は、鶏をしめるのを見てから鶏アレルギーになってしまったため、鶏だと気づかれないように食べさせる必要がありました。そのため、安藤百福さんは、試しに鶏ガラのスープを作ってみると、次男は、スープが鶏だと気づかずに飲み干してしまいまし、むしろ、あっさりした鶏ガラスープにやみつきになりました。

この様子を見て、安藤百福さんは「分かった。ラーメンのスープは鶏だ。西洋料理も東洋料理も、昔からチキンのスープが基本の味だ」と気付かされ、ラーメンのスープは鶏ベースに決まりました。

安藤百福とチキンラーメン:乾麺づくり

ラーメンの次なる難関は、ラーメンの麺の「簡単な調理」と「保存性」でした。なんとか麺を保存できないかと、天日干しや燻製、塩漬けなどで、さまざまな方法を試してみましたが、どの方法も、すぐに麺を元の柔らかい状態に戻すことができないという難点がありました。そのため、水を吸うと同時に柔らかくなる「高野豆腐」にも目をつけました。しかし、高野豆腐のように、無数の小さな穴を麺に開けることなど、到底、できるわけもなく、断念してていました。

そんな壁にぶつかった安藤百福さんでしたが、妻が夕食の天ぷらの準備を始めていた様子を見ていて、「金網に並んだ天ぷらには、穴が空いている」ということを発見しました。天ぷらは、熱い油の中に入れることで水が蒸発し、衣にたくさんの小さな穴を作り出します。それならば、麺も熱い油で上げれば穴ができ、そこから湯を注げば元通りになるのではないか。その瞬間の閃きを、安藤百福さんは「天ぷらを揚げながら、私の頭は、重要なヒントをつかみかけ、急回転をはじめていた」と語っています。

困難な状況を打ち破るヒントは、何気ない日常の、家庭の生活の中に転がっていました。

油で揚げることを考案した後も、「油で揚げて乾燥させる前に、麺に水分がどれくらい含まれていればよいか」を探るため、麺を乾燥させるのに適した真冬の夜、かじかむ手で、妻とともに作業に打ち込み、粉まみれになりながら開発を続けました。

そして、安藤百福さんが48歳のとき、ついに、インスタントラーメンが完成。東京のデパートで試食販売会を実施し、キャッチコピー「たった2分で、おいしくできる魔法のラーメン」の触れ込みの元、お客さんの目の前でインスタントラーメン作りを実演すると、500食のインスタントラーメンはすぐに完売し、本格的にインスタントラーメンの製造化の研究が進められました。

安藤百福とチキンラーメン:チキンラーメンの完成

インスタントラーメンを製品化するに当たっては、さらにクオリティを高めるための研究が行われました。

例えば、「より濃いスープを作るにはどうすればよいのか」、「湯をかけたときのめんの戻り具合に関してまだ改良の余地があるのではないか」といった改良が行われました。

そして、その過程の中で、安藤百福さんの家族は、インスタントラーメンを「チキンラーメン」と呼ぶようになり、チキンラーメンが商品名となります。

チキンラーメンのパッケージには、安藤百福さんのアイデアで、手塩にかけた商品の中が見えるよう、15本の黄色い横線の中央を、卵型に透明にした窓が作られました。

ついに製品化されたチキンラーメンは、1袋35円(現在の貨幣価値で160円)と割高だったにも関わらず、大ヒットし、2年間で第5工場まで増設するほどのヒットを記録し、急成長を続けます。そして、チキンラーメン販売開始から、わずか5年後の1963年には、安藤百福さんの会社「日清」は東証2部に上場し、飛躍を続けていきました。

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