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日本レーザー:銀行にも見放されていた会社
株式会社日本レーザーとは、次のような会社です。
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日本レーザーに、1994年当時、銀行からも見放されるほど悲惨な業績の会社でした。しかし、その後の改革で再建を果たし、以後、20年以上にわたり、黒字経営を続けています。
現在の日本レーザーは、中小企業のお手本とも言える優良会社で、経営大賞など、数多くの賞も受賞するほどです。そんな日本レーザーの復活劇は、1994年に代表取締役に就任した、近藤宣之さんの尽力なしには語れません。
日本レーザー:近藤宣之さんが社長になるまで
後に日本レーザーの社長となる近藤宣之さんは、大学卒業後、「日本電子」に就職します。日本電子は、1949年に設立された電子顕微鏡の世界トップメーカーで、1962年には東京証券取引所2部に上場を果たすほど勢いのある企業でした、その後、事業拡大に失敗します。そして、近藤宣之さんが30歳で日本電子の労働組合の委員長を務めているときに、社員の3分の1を削減する状況に立ち会うことになりました。
近藤宣之さんは、労組が集めていた個人別闘争積立金を返還するため、退職面接の場を持ちました。そして、ベテラン社員より、次のように問い詰められる経験をします。
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そして、近藤宣之さん自身も、労働組合の委員長として経営のチェック機能をきちんと果たせていなかったことへの自責の念を、強く抱きました。
その後、日本電子の会社債権の目処がつくと、今度は、アメリカの現地法人の支社の破綻処理を任されます。そして、支社の閉鎖を行い、さらに日本人駐在員を全員帰国させ、現地社員を全員解雇し、全事業の売却を実施しました。
さらに、次は、アメリカの現地法人の本社で支配人を務めましたが、今度は、米ソの冷戦の終結による軍事費縮小の影響で売上が4割落ちてしまったため、社員の給料を2割削減し、日本人駐在員の約半分を帰国させ、さらに現地社員を解雇しました。このときも、アメリカ社員に泣きながら訴えられ、「解雇がないと思ったから、日系企業を選んだのに…」と言われ、経営について考えさせられるようになります。そして、近藤宣之さんは、アメリカ流の個人主義的な経営に疑問を持つようになる中でアメリカでの業務を終えて帰国し、1993年より、日本電子の国内営業担当取締役に就きます。
日本レーザー:近藤宣之さんの社長時代
日本に戻った翌年の1994年、近藤宣之さんは、銀行からも見放されて、存続も危ぶまれていた日本電子の子会社「日本レーザー」に社長として就任し、再建に当たらされることになります。
日本レーザーは、元々は、日本電子の100%子会社でしたが、日本電子の資本の入っていない「レーザー商社」を吸収したため、日本電子が7割出資の子会社となっており、3分の1は個人株主の状態となっていました。そして、再建するにあたり、前任の経営者の株をどうするかが問題となりました。
通常であれば、日本電子が買い取って、持株比率を増やします。しかし近藤宣之さんは、「親会社からの雇われ社長だと思われては、日本レーザーの社員の信頼が得られない」と考え、日本レーザーの株式を、自らのポケットマネーで個人で買い取るという決断を行います。
日本レーザーの株は、額面上は500円の未上場株でしたが、実際は債務超過で価値がほとんどないため、買取価格は100円でも十分な株でした。しかし、近藤宣之さんは、あえて額面どおりの500円で買い取りました。そして、この近藤宣之さんの選択が、その後に日本レーザーの再建に好影響をもたらし、社員が次のような見方をするようになりました。
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しかし、それでも、再建は一筋縄ではいきませんでした。近藤宣之さんは、再建のために厳しいマネジメントを実施したため、役員や中堅社員が反発して、取引先を引き連れて辞めていったため、フランスやドイツ、イスラエルなどの商権を失ったこともありました。
近藤宣之さんは、このような離反が起こるのは、本社役員と兼務で日本レーザーの社長をしているからだと考え、「戻る場所があっては、社員がついてこない」と決断し、日本レーザーの社長に専念する覚悟を決めます。そして、1995年6月の日本電子の総会を最後に、日本電子でのキャリアアップを放棄し、取締役を退任しました。
その後、日本レーザーは円高の追い風に乗り、自社ブランドのシステムも売れ、2年めにして大幅な利益を上げ、累積赤字を一層しました。そして、再び配当金の出せる復配が可能となり、黒字経営が続きます。
普通、輸出入を扱う商社の場合は、為替変動による影響を受けやすいため、一時的な赤字経営も、やむなしと考える経営者も多いものです。しかし、日本レーザーの代表取締役社長であった近藤宣之さんは、次のように考えます。
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そして、為替の急激な変化などの逆風があっても、社内のコスト見直しや、新規事業の開発などの対応を素早く行い、日本レーザーは、どんな逆風の中でも黒字経営を続ける超優良企業となったのでした。
日本レーザー:近藤宣之さんの名言
近藤宣之さんには、父親から受け継いだ次のような名言があります。
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2点間の最短距離は、理論上は、直線です。しかし、人生においては、その常識は当てはまりません。まっすぐ進もうとしても、壁にぶつかったり、途中で道が途切れていたり、山あり谷ありで迂回しなければならないときもあります。
しかし、後に振り返ってみると、遠回りだと思っていた道筋が、実は最短ルートだった、という意味です。
この近藤宣之さんの名言は、近藤宣之さんの父親の名言でもあります。近藤宣之さんの父親は軍医をしており、戦時中、満州やインドネシアでの転戦の中で、たまたま船に乗り遅れたために船の撃沈に巻き込まれなかった経験などを重ねました。そして、父親に、人生とは思い通りにいかないという人生観が身につき、この名言を口にするようになりました。そして、近藤宣之さんも、自分が壁にぶつかるたびに父親の言葉を思い出し、「一見、遠回りに見えるが、これが私にとっての最短ルートだ」と言い聞かせて、がんばってきたのでした。