本田宗一郎のエピソード

本田宗一郎のエピソード:肩書に興味なし

本田宗一郎さんが、ピストンリングの開発で苦戦していたときのエピソードです。

自動車修理工として確固たる技術を持っていた本田宗一郎さんですが、新しくピストンリングの開発を手掛けたとき、どう頑張っても開発できませんでした。

そのため、金属工学の知識を身につけるために、浜松工高(現在の静岡大学)の聴講生となり、3年間かけて基礎的な知識を学びました。しかし、興味があるのは授業内容だけだったため、筆記試験をすべて欠席していた本田宗一郎さんは、校長より退学を告げられます。

そのとき、本田宗一郎さんは「免状なんてどうでもいいですよ。私は、免状のために学校へ来ていたのではありません。仕事のために勉強しているのですから。映画の切符なら必ず映画館に入れますが、免状じゃ映画も見られません。映画の入場券より悪いじゃないですか」と突っぱね、そのまま、好きな講義に出続けて知識を習得しました。

自分の欲するものに一途で、肩書には興味のない、本田宗一郎さんの職人気質あふれるエピソードです。

本田宗一郎のエピソード:自分と同じ性格の人とは組まない

本田宗一郎さんが、相棒とも言える藤澤武夫さんと出会ったときのエピソードです。

本田宗一郎さんが、後に「技術の本田、販売の藤澤」と呼ばれるほどのベストコンビとなる藤澤武夫さんと出会ったのは、知人からの紹介ででした。

藤澤武夫さんは、技術に関しては素人でしたが、金勘定に長けており、販売を得意としていました。本田宗一郎さんは、「自分と同じ性格の人とは組まない」という信念を持っていたため、出会ってすぐに藤澤武夫さんを気に入りました。

それから二人は、引退するまで、まるで新婚夫婦のように議論を重ねることとなります。

ちなみに、本田宗一郎さんは、家族をホンダに入れず、引退後は経営にも口を一切はさみませんでしたが、それらもすべて、藤澤武夫さんよりの意向を汲んでのことだと言われています。

本田宗一郎のエピソード:邪魔を排除するためには金目も厭わない

本田宗一郎さんが、デザインを考えているときのエピソードです。

本田宗一郎さんは、デザインに対するこだわりもかなり強い人物でした。そのため、よいアイデアが浮かぶと、どんなに深夜でも妻に「紙と鉛筆をもってこい!」と怒鳴りました。

また、時折、デザイン案が頭にちらつくものの、中華そば屋のチャルメラの音が気になって考えがまとまらないときは、もう我慢ならんとばかりに妻に命じて、中華そばをすべて買い占めてチャルメラを黙らしました。

このように、熟考に熟考を重ね、思いついたら一気呵成に実行に移すスピード感で、立ちはだかる困難を次々と打開していくところに、本田宗一郎さんのやり方の特徴があります。

本田宗一郎のエピソード:感謝を伝える

有名な、本田宗一郎さんの引退後のエピソードです。

本田宗一郎さんは、短気な性格だったために、思い通りに仕事が進まないとあからさまに苛立ち、口で注意するよりも先に手が出てしまうこともしばしばでした。しかし一方で、経営者の身でありながら従業員と同じ食堂で昼飯を食べ、一緒に将棋を指すなど、飾り気のない性格から「オヤジさん」と呼ばれ、親しまれていました。

そんな本田宗一郎さんは、1973年(昭和48年)の退任の挨拶で、技術者たちをねぎらって「がんばってくれた従業員一人ひとりにお礼を言いたい」と述べました。

オヤジさんからの最後のねぎらいは、従業員たちを大いに感動させましたが、それは、言葉だけにとどまりませんでした。引退してしばらくたったとき、本田宗一郎さんは、本当にすべての従業員にお礼を言ってまわりはじめたからです。日本全国に散らばるホンダの工場や販売店は、数千箇所にも及ぶため、とても回りきれるわけがないと周囲は思っていましたが、本田宗一郎さんは、たとえ従業員が2、3人の小さな場所であっても、ホンダの看板を掲げているところは、全部まわっていきました。

本田宗一郎さんの御礼行脚がスタートしたのは、67歳時の1974年(昭和49年)1月28日で、1年半を費やし、南から北まで、全国津々浦々の工場・販売店への御礼行脚をやり遂げました。本田宗一郎さんは、驚きと喜びで戸惑う従業員たち一人ひとりと握手し、「ありがとう、ご苦労さん」と声をかけ、店の前で従業員たちと記念写真を撮ると、「これからも第一線でがんばってくれよ」と激励の言葉をかけて去っていきました。

また、ある工場では、握手のとき、工員が、手が油まみれだったために慌てて引っ込めたところ、本田宗一郎さんは、工員の手をがっしりと握って、「いや、いいんだよ、その油まみれの手がいいんだ。俺は油の匂いが大好きなんだよ」と言い、自分の手についた油の匂いを嗅ぎました。

本田宗一郎さんの、人間味を感じるエピソードです

本田宗一郎のエピソード:技術者としての息込み

本田宗一郎さんが、勲一等瑞宝章を受賞したときのエピソードです。

技術者としての実績を評価された本田宗一郎さんは、その授賞式で、「白い作業着を着たい」と言い出しました。周囲は大反対し、「天皇陛下の前で、そんな失礼なことをする人はいない」と大反対しましたが、本田宗一郎は、「いなくなっていいじゃないか。俺は白い作業着が着たいんだ」と、抵抗したそうです。

結局、妻の反対には勝てず、当日は黒のモーニングで出席しましたが、本田宗一郎さんにとっては、、これまで腕一本で戦ってきたという強烈な自負もあり、白の作業着こそが、技術者のシンボルであり正装だと考えていたわけです。

本田宗一郎のエピソード:クルマ屋としての最期

本田宗一郎さんは、84歳の1991年(平成3年)、肝不全でこの世を去りますが、そのときの遺言に関するエピソードです。

本田宗一郎さんの遺言は、新聞の追悼記事で「反骨の自動車技術者」として紹介され、「社葬をしてはならない。社葬なんかすれば、交通渋滞の原因になり、世間に迷惑がかかる。そんなことは、クルマ屋として絶対にやってはならない」と述べていました。そして、本田宗一郎さんの遺言どおり、通夜も葬式も執り行われる事はありませんでした。

しかし、本田宗一郎さんを偲ぶ人たちが、東京の青山の本社や、埼玉の製作所、鈴鹿の製作所などに集まって「お礼の会」を開催し、述べ6万2,000人が、本田宗一郎さんを偲びました。

本田宗一郎のエピソード:まとめ

本田宗一郎さんの創業したホンダといえば、戦後に創業した日本企業のうち、ソニーと並んで数ええられる、最も成功した2社のうちの1つです。

そして、本田宗一郎さん自身も、一介の自動車修理工から、「世界のホンダ」の創業者へと躍進し、その人生も、F1レーサーよろしく、フルスピードで駆け抜けていった方です。

しかし、一方で、本田宗一郎さんは、車やオートバイが「どれだけ売れているか」より、自分の手掛けたものの「調子がいい」「気に入っています」と言われることを、最もうれしく思う人物でした。そのため、本田宗一郎さんは、亡くなる少し前に、ある老人が昭和30年代に作られたスーパーカブに乗っているのを見て、「あんな昔の製品が、まだちゃんと動いているのか」と大喜びしたこともありました。そのような、経営者である以前に、最後まで一技術者であり続けたところに、本田宗一郎さんの魅力があるのかもしれません。

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