ディズニーランドの歴史

ディズニーランドの歴史:無謀な挑戦

ディズニーランドは、戦後、ウォルトディズニーが『不思議の国のアリス』や『ピーターパン』、さらに『シンデレラ』といったヒット作を世に送り出していた頃に、考案されました。

しかし、ウォルトディズニーの経営する「ウォルト・ディズニー・プロダクション」は、それまでアニメーションの製作経験しかなく、遊園地事業のノウハウは全くありませんでした。そのため、ウォルトディズニーの夢の国の建設計画は、周囲を大いに戸惑わせ、共同経営者だった兄のロイや、ウォルトディズニーの妻も猛反対し、専門家ですら失敗すると断言するほどでした。

それにも関わらず、ウォルトディズニーは「不可能なことをやるのは楽しいものだ」と、周囲の意見を全く聞きませんでした。そして、迅速な行動で、生命保険を担保にして10万ドルを借り、別荘を売り払い、さらには従業員からも融資を受けました。

しかし、ディズニーランドの建設費用には何百万ドルという資金を要するため、それでもまだお金が不足していました。そこで、ウォルトディズニーは、テレビで宣伝することを思いつきます。

アメリカの3大ネットワークのうち、NBCとCBSはディズニーランドに対して否定的でしたが、残るABCがウォルトの計画に乗ってきたため、「ディズニーランド」という1時間番組を、毎週ABCで放送することになりました。こうして、資金の問題も解決し、ディズニーランドの建設が始まりました。

以上のように、ディズニーランドの歴史は、夢を追い求めるウォルトディズニーの無茶な行動により開始されました。

ディズニーランドの歴史:悲惨だった初日

ウォルトディズニーやスタッフは、ディズニーランド開園へ向け、毎日15時間以上も忙しく働きましたが、それでも、準備には難航しました。しかし、テレビで何ヶ月も前から、開園の模様の生放送が決まっていたため、開園を延期することはできません。そして、とうとう、準備不足のままに開園日を迎えることになりました。

ウォルトディズニーが53歳時の1955年7月17日の日曜日、カリフォルニア州のアナハイムで、ついにディズニーランドが開園しました。しかし、その初日は、後にウォルトディズニーが「ブラック・サンデー」と呼んだほど、散々なものでした。

当初の予定では、園内に来るのは1万1,000人の招待客だけのはずでしたが、蓋を開けてみると園内はその倍以上の人でごった返していました。そのため、招待客の数に合わせて用意されていた飲食物もすぐに品切れとなり、炎天下にも関わらず、水飲み場も足りない状況でした。

さらに、次のようなトラブルも続出しました。

  • ペンキが完全に乾いていなかったために、服を汚してしまうゲストもいた
  • ゴミ箱が少なかったため、園内はごみであふれかえった
  • アトラクションの調子も悪く、故障が相次いだ
  • 昼間になると38度近くになり、舗装したてのアスファルトが溶け出して、ハイヒールが突き刺さって靴が脱げてしまう女性もいた

あまりの混乱ぶりに、アナハイム市長も嫌気が差し、家に帰って、テレビでその様子を見届けたほどでした。

以上のように、ディズニーランドの歴史の記念すべき1日めは、あり得ないほど悲惨なものでした。

ディズニーランドの歴史:完璧な「夢と魔法の国」の実現

ディズニーランドは、混乱の幕開けとなってしまいましたが、その後、ウォルトディズニーは、完璧な「夢と魔法の国」を作り上げるべく、すさまじいこだわりを見せました。

ウォルトディズニーは、園内を何度も歩き回り、ゲストの意見を直接聞き、園内のすべてを自ら点検し、例えば、次のような改善を行いました。

  • マークトゥエイン号から見える位置に車を停めたスタッフを見かけると、すぐに撤去するように警告した。これは、ファンタジーの世界観を損なうものを、徹底的に排除したかったためだった。
  • 園内の建物を大きく作ることを避けた。建物がゲストたちを威圧してはいけないと考え、パーク全体を8分の5の縮尺サイズで設計した。
  • パーク内に広がる風景と建物は、現実感が出ないようにデザインされた。訪れた人を、まるで映画の主人公になったかのように錯覚させるのが狙いだった。
  • 新しい国のエリアに入る際は、その入口の地面の素材を変えた。これは、足の裏で、別の国へきたことが分かる工夫であった。

もちろん、ウォルトディズニーは、ディズニーランドの従業員にも気を配り、次のように指示しました。

  • 従業員は、数日間、ディズニー大学に入れ、ディズニーランドに相応しい接客態度を身に着けさせた。
  • 態度だけでなく外見にも注意を払い、派手な化粧や香水を禁じ、身だしなみは清潔に保つよう指導した。

さらに、ディズニーランドを一度訪れた人々も、再び足を運びたくなるよう、ゲストの意見を取り入れながら、ウォルトディズニーは新しいアトラクションを増やし続けました。普通のアニメーション映画であれば、完成した作品はそれで終わりですが、日々更新されるディズニーランドは、変化のたびに評判を呼び、多くの観客を集めることに成功しました。

以上のように、ディズニーランドの歴史は、ウォルトディズニーによる徹底的な「夢と魔法の世界」へのこだわりの中で、生まれてきました。

ディズニーランドの歴史:ワールドリゾートの建設

ウォルトディズニーは、アナハイムのディズニーランド開園から10年後、フロリダ州の中心に、マンハッタンの2倍にもなる敷地を買い、理想の都市そのものを建設するという、「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」の建設に着手しました。ウォルトディズニーは、1966年に、「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」の完成を見ることなく亡くなりますが、ウォルトディズニーの遺志は、兄のロイに受け継がれました。

そして、ロイが1971年10月1日に、「ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート」の完成を見届けて、ロイもその2ヶ月後の12月20日、孫と一緒にディズニーランドに行こうとしていたまさにその日に、脳梗塞で78歳で亡くなりました。

ウォルトディズニーの理念は、世界中の多くの人々へと引き継がれ、1983年には東京ディズニーランドが建設され、オープンの際には、本国以上の盛り上がりを見せました。それから30年以上が経つ現在でも、東京ディズニーランドは、リピーターの多い日本一のテーマパークとして、連日多くの入場者が詰めかけ、ゲストたちはウォルトの夢の続きを楽しんでいます。

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