第二電電

第二電電:第二電電とは

第二電電とは、1985年の電気通信事業の自由化により、「京都セラミック(京セラ)」の社長により作られた電話会社で、正式には「第二電電株式会社(DDI)と呼びます。

日本の電気通信事業は、長らく、次の2社が独占していました。

  • 電電公社(日本電信電話公社、現在のNTT):日本電信電話公社関係法令による公法上の電話会社で、1985年の民営化により日本電信電話株式会社(Nippon Telegraph and Telephone Corporation、NTT)へ名称変更。
  • KDD(国際電信電話株式会社、国際電電):1953年に電電公社から、国際部門を分離独立した電話会社。

その後、1980年代に入り、電気通信事業の自由化の実現は決定的と見られていました。しかし、通信事業を100年に渡り独占してきた電電公社に立ち向かおという企業は、なかなか現れませんでした。

そんな中、電電公社の通信独占状態に意義を唱え、電電公社を退社した千本倖生(せんもとさちお)さんは、大阪のコーヒーバーで、電電公社に対抗する新しい通信事業会社の構想を、京セラの創業者である稲盛和夫さんに説きました。

そして、京セラの創業者で、世界的な企業として成功を納めていた稲盛和夫さんも、「誰かがやらなければならない重要な事業なのに、なぜ誰も手をあげようとしないのだろうか」と、日本の通信料金の未来に危惧します。しかし、電気通信事業はあまりにもリスク伴う事業であったため、稲盛和夫さんは、そこに私利私欲はないか、本当に社会のためを思っての行動なのか、自問自答を繰り返します。そして、悩みに悩みぬいた末、たとえ無謀だとしても、社会のために一肌脱ごうと決心します。

そして、稲盛和夫さんは、電気通信事業の自由化の前年となる1984年6月に、京セラ、三菱商事、ソニー、セコムなど25社の出資で「第二電電企画株式会社」を創業し、電電公社の社員で後に「イーモバイル(ワイマックス)」の創業者にもなる千本倖生さんを専務に迎えます。そして、1985年に社名を「第二電電(第二電電株式会社、DDI)」へと変更し、第一種電気通信企業の免許を取得しました。

そして、1985年4月に電気通信事業法の施行により電気通信事業の自由化が実現し、さらに、次の2社も電気通信事業に参入します。

  • 日本テレコム:国鉄のバックアップあり
  • 日本高速通信:道路公団のバックアップあり

そして、「新電電三社」とも呼ばれる「第二電電」・「日本テレコム」・「日本高速通信」による三つ巴での戦いの火蓋が切られます。

しかし、この戦いは、想像どおりではあったものの、あまりにも不利な戦いでした。他社には、国鉄や道路公団のバックアップがあったため、すでにある鉄道網や道路網に光ファイバーを引くだけでした。一方、第二電電(DDI)には何もなく、通信回線ルートすら確保できず苦労し、周囲からは「稲盛はついに乱心したか」という声も上がりました。

第二電電:DDIの電話

第二電電(第二電電株式会社、DDI)のルートについては、公平な競争は自社にもメリットがあると考えた電電公社により、「空いているルートを提供してもいい」という申し出があり、解決しました。そして、第二電電は、東京・名古屋・大阪の3大都市以外には専用回線がないため、各地にマイクロ波鉄塔を設置して、無線通信で中継電話サービスを提供する「リレーステーション方式」を採用し、サービスを提供することになり、光ファイバーを引くだけの、他の新電電2社とは異なる方法を選択します。

こうして、なんとかスタートを切ることはできたものの、慣れない事業に、当初から困難の連続でした。第二電電は場所を確保していないため、土地を買収してから施設を建設し、無線装置を設置しなければなりません。しかも、それはすべて、地主との交渉で合意を得られればの話であり、得られなければ事業を進行することすらできません。しかも、稲盛和夫さんの京セラはセラミックの会社ですから、通信分野のベテラン社員は皆無の状態でした。そのため、ライバル他社のように鉄道網も交通網も持っていない第二電電は、時間を大きくロスするのも周囲から見て明白でした。

そのような状況下でも、稲盛和夫さんは従業員に、「百年に一度という大変革期に巡り合わせたことを大変な幸運と思おうではないか。このチャンスを大事にして、成功に向けて一丸となって燃えよう」と檄を飛ばします。

通信の中継基地には、積雪が5メートルになるような場所や、道路すらないところもありました。部品を運ぶだけでも一苦労で、設置作業に取り掛かるまでにも非常に時間がかかりました。小さいものは山道を切り拓きながら徒歩で運び、鉄骨やセメントはヘリコプターで運びました。作業は困難を極めましたが、現場の人間は決してあきらめず、山から山へと鉄塔を組んでは、マイクロウェーブ回線(マイクロ波回線)を地道につないでいきました。

鉄道網や道路網に光ファイバーを引くだけのライバルとは全く状況が違いましたが、完全に不利な状況で挑むことにより、かえって現場の闘志は燃え、DDIは、最速と言われていた工期よりもさらに6ヶ月も短縮した2年4ヶ月で開通させることに成功し、1987年の9月には、東京-名古屋-大阪の東海道ルートの市外電話サービスを開始しました。

第二電電:KDDIとauの電話の誕生

第二電電株式会社(第二電電、DDI)は、その後、1988年には、移動体通信の時代が来ることを見越し、第二電電と京セラの出資で、移動体通信子会社のサービスとしてauの前身となる「DDIセルラー」を設立。

1993年に第二電電は、新電電三社の中で最も早く東証二部に上場し、95年には、第二電電は東証一部に上場。終わってみれば、インフラもノウハウもない第二電電(DDI)が、まさかの勝利をおさめ、新電電最大手となりました。

そして、東証一部上場と同年の1995年にPHSサービスも開始し、電話業界から携帯電話業界へとさらに業務を拡大。同年2000年10月、最大手のNTTに対抗すべく、次の3社が合併し、大手通信業者が誕生します。

  • 第二電電(DDI):筆頭株主は京セラ
  • KDD(国際電電):筆頭株主は日本郵政公社。合併前は、ライバル会社であったNTTが第3位株主であったため、合併前にNTTの株は売却。
  • IDO(イドー、日本移動通信):1987年に、日本高速通信が筆頭株主となり、トヨタや東京電力、中部電力を中心に設立

なお、合併に際して、その前の2000年7月に、自動車電話・携帯電話事業を行っていた「IDO」と「DDIセルラー」の事業を一本化してブランド名を「au」として統一します。

そして、2000年10月に3社が合併して、社名は「株式会社ディーディーアイ」となり、DDIセルラーの事業は2000年11月以降は「株式会社エーユー」に引き継がれます。

また、「株式会社ディーディーアイ」は翌2001年4月に社名を変更して「ケイディーディーアイ株式会社」となり、2002年11月には皆さんご存知の「KDDI」へと変更になります。なお、カタカナ表記の時代があったのは、2002年11月の商業登記規則が改正されるまで、アルファベットで社名登記できなかったためです。

社名を立て続けに変えている合間の2001年10月には、「株式会社エーユー」もKDDIへと吸収されました。そのため、KDDIの移動体通信事業(携帯電話)のブランド名を「au」と呼ぶわけです。KDDIは、前身企業にNTTのインフラや資産が継承されているKDDが含まれているため、事実上はNTTの兄弟企業と言われることもありますが、新電電の最大手にしてNTT最大のライバル企業として君臨しています。また、auの国内のPHSを含む携帯電話の占有率も、2018年現在、NTTに続いて2位となっています。

なお、KDDIの筆頭株主は、DDIの筆頭株主でもあった京セラとなりました。そして、京セラの稲盛和夫さんは、KDDIの最高顧問に就任します。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする