ルクロ

ルクロ:心斎橋から始まったレストラン

「ルクロ(ル・クロ)」とは、次のような、心斎橋から始まったレストランです。

  • 2002年に開店
  • お箸で食べられるフレンチレストラン
  • 国内に5店舗、パリに1店舗を展開

ルクロは、飛び込みでパリのミシュランのレストランに修行に行った経験のある、黒岩功さんの作ったレストランです。ルクロは、複数店舗を持っているため「ル・クログループ」とも呼ばれており、株式会社クロフーディングという社名で運営し、現在は、ブライダル事業も手掛けています。クロフーディングのブライダル事業は、感動のサービスで話題となっており、顧客満足度の高さで有名なリッツカールトンを超えるとも言われているほどです。

そんなルクロの歴史は、黒岩功さんが苦労の末に心斎橋で開店した、目立たない路地裏のレストランから始まったのでした。

ルクロ:黒岩功さんと料理

ルクロのオーナーである黒岩功さんは、1969年、遠洋漁業の船乗りである父親と、商売をやっていた母親の元、鹿児島で生まれました。黒岩功さんは、幼い頃から小児喘息で、学校を休むことが多く、勉強に遅れがちな子どもでした。また、無口で根暗だったため、小学校では毎日、いじめにもあっていました。

父親は遠洋漁業、母親は商売のため、両親は家にほとんどおらず、兄弟である弟も小さかったため、必然的に、黒岩功さんが家での食事当番となり、毎日、自分と弟の食事を作っていました。その結果、小学生4年の授業参観のとき、家庭科の授業でキャベツを切る人を先生が募ったとき、勉強が苦手で普段は絶対にても挙げない黒岩功さんが、元気よく手を挙げて、立候補しました。そして、周りが驚くほどキャベツをうまく切るのを見た母親が、涙を流すのを見て、「自分はいつか料理人になって、親孝行しよう」と決心しました。

黒岩功さんは、18歳で鹿児島を後にして、大阪の店に勤めながら料理の修行に明け暮れます。お店では、毎日、先輩に怒られる日々でしたが、小学校のように理由もなくいじめられることはなかったため、何度怒られてもニコニコして「ありがとうございます」と言っていました。そうしているうちに、今度は逆に先輩から可愛がられるようになり、飲みに誘われるようにもなりました。

そんな生活をしながら修行を積む中で、黒岩功さんの中では、だんだん、海外で自分の力を確かめたいという思いが高まっていきます。そして、ついにスイスへ単身で渡り、しばらく働いた後、さらに、ミシュランの星がつく店で働くため、フランスのパリへと拠点を移しました。

ルクロ:黒岩功さんとミシュラン

黒岩功さんは、フランスで雇ってもらうために、100軒ほどのお店を回りましたが、フランス語も片言だったため、断られ続けました。特に、黒岩功さんはフランス語を話せなかったため、面接もままならない状況でした。しかし、100軒も断られ続けたため、面接で聞かれることが、なんとなく理解できるまでに成長していきました。そして、最後の一店と思いながら訪ねた店のオーナーの面接で、オーナーの質問にしっかりと受け答えすることができ、ついに、憧れのミシュラン2つ星の店で働けるようになったのでした。採用されてからは、黒岩功さんは、誰よりも朝早くに店に出て、夜12時過ぎまで働きました。

その後、黒岩功さんは、次第に「次はミシュランの3つ星で働きたい」という思いを強くするようになります。そして、そのことを2つ星店のオーナーに相談すると、オーナーはすぐに受話器を取り、3つ星のオーナーに「自分のところで働いている日本人の料理人が、お前のところで働きたいといっているが、どうか?」と、取り次いでくれました。そして、黒岩功さんは、3つ星レストランで働けることになったのでした。

ただし、実は、2つ星店や3つ星店で働けるようになったのには、一つの秘密があります。黒岩功さんは、2つ星も3つ星も、無休無給の条件だったため、働かせてもらえたのでした。そのため生活費は、土日に日本料理店でアルバイトして、なんとか食いつなぎ、修行を積み重ねました。

ルクロ:心斎橋のレストラン

そして、フランスに渡って3年目、ついに手持ち資金も尽き、大阪に帰って有名店でしばらく働きました。そして、日本で知り合った妻と、2002年、西心斎橋で、フランス料理の小さなレストランである1号店「ルクロ」を開店します。

しかし、心斎橋のルクロ1号店は、絶対に飛び込み客が来ない路地裏でスタートした、小さな店でした。当時は銀行からお金の借り入れもできなかったため、食器も100円ショップで買い揃えていたため、フランス料理店とは思えないようなものでした。しかも、黒岩功さんの妻は、子どもを背負いつつ、お腹には2人目の赤ちゃんを身ごもりながら、一緒に接客を行いました。

開店当初は、1日に来る客は1~2人で、1人も来ない日もありました。そのため、妻と2人で、近隣の大学の学食でも働きながら、毎日を食いつなぐ日々を送ります。それでも、なんとか黒岩功さんが踏ん張り続けることができたのは、幼子のミルク代を稼がなくてはならないという責任感と、文句一つ言わずに一緒にやってくれる妻への感謝があったからでした。そうして、コツコツとレストランを続けているうちに、やがて、心斎橋のルクロは、「掘りこたつで靴を脱いで、気軽に箸で食べられるレストラン」として口コミになり、評判も広がっていきました。そして、他のお店も、次のようにオープンしていきます。

  • 2号店:1階から6階まで階ごとにコンセプトを変えたお店
  • 3号店:ウエディングもできる大型店
  • 4号店:明治中期の洋館を改装した店舗

そして、2012年には、黒岩功さんが修行していたフランスのパリへも、出店しました。パリ出店では、法律や文化の違いからなかなか工事が進まず、まだ開店もできていないのに高い家賃だけを払い続けることになりました。そのため、一時は、撤退も考えなければいけない状況に陥りましたが、「今までお世話になった方への感謝のためにも」と、意を強くして乗り切りました。その結果、パリのお店も、現在では行列のできる繁盛店になっています。

ルクロ:創業者の黒岩功さんの名言

今では、黒岩功さんのルクロは、外食グループの「ルクログループ」と呼ばれるまでに成長しています。そんな黒岩功さんを支え続けたのは、大阪の修行時代に先輩からもらった、ナポレオン・ヒルの著書『成功哲学』の次の名言でした。

  • 諦める一歩先には、必ず宝がある

黒岩功さんは、はじめてこの言葉と会ったときは「おもしろいな」と思う程度でしたが、その後、この言葉が黒岩功さんを支えます。黒岩功さんは、パリで働くことができず、心が折れそうになって日本に帰りたいという思いがよぎったとき、持参していた『成功哲学』を読み直して奮起しました。そしてその後も、困難が訪れるたびに、この名言を支えにしてきました。

黒岩功さんは、今までに、パリの就職で断られ続けたとき、心斎橋の出店で閑古鳥の鳴いていたとき、パリの出店時に退店の選択を迫られたとき、と、くじけてしまいそうな時期を多く迎えています。しかし、いつも諦めなかったからこそ、言葉通り宝物を手に入れることができ、今のルクロの成功を納められたわけです。

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