目次
佐治敬三とは
佐治敬三とは、サントリーの2代目社長であり、42歳頃の1961年から、71歳頃の1990年まで社長を務め、1990年から1999年に80歳で肺炎で亡くなるまでは、サントリーの会長として残りました。佐治敬三さんは、サントリーの中興の祖として知られます。
佐治敬三さんは、戦前の1919年(大正8年)生まれで、1999年(平成11年)に80歳で亡くっています。1919年に大阪府大阪市で、次男として生まれました。佐治敬三さんの父親は、サントリーの前身である「壽屋洋酒店(ことぶきやようしゅてん)」という会社を創業した鳥井信治郎さんです。佐治敬三さんは、12歳頃の1932年に難関校区であった浪速高等学校尋常科に進学した頃に、母親方の親戚筋である佐治家の養子になったため、名字は父親の姓である鳥井とは異なっています。戸籍上の両親は実父母とは異なるものの、そのまま両親の元で育ちましたが、13歳頃の1933年頃に実母を亡くし、さらに14歳頃の1934年には自身も肺湿潤により留年も経験しています。20歳頃の1940年に大阪帝国大学(現在の大阪大学)に進学し、同年1940年、11歳年上の兄で、壽屋の後継者候補でもあった33歳の鳥井吉太郎さんを、心臓疾患で亡くしました。22歳頃の1942年に戦争の影響により繰り上げ卒業した後は、兵役につき、神奈川の海軍の研究室で燃料や潤滑油の研究をしていました。ちなみの戦時中、実家の壽屋は、壽屋の大阪工場を利用して航空燃料の製造などを行っていましたが、終戦前に、壽屋の大阪本社や大阪工場は消失してしまいました。しかし、壽屋のウイスキーの蒸溜所である山崎蒸溜所のみ、戦火を逃れました。そして、佐治敬三さんは、戦後の25歳時の1945年に、地元に戻り、壽屋で働くことになりました。
佐治敬三とは、次のような特徴を持つ人物です。
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次に、佐治敬三さんのそれぞれの特徴を見ていきます。
佐治敬三とは:1.広告の天才(前編)
佐治敬三とは、「広告の天才」という特徴のある人物です。佐治敬三を語る上で、まずは、佐治敬三が社長を務めたサントリーという会社が、どのような会社か知っておくと、分かりやすいかもしれません。
ウイスキーで有名な「サントリー」は、同じ日本のウイスキーメーカーである「ニッカウヰスキー」とよく比較されます。ニッカウヰスキーとは、「マッサン」というNHK連続ドラマで有名になった竹鶴政孝さんが作ったウイスキー会社です。「サントリー」と「ニッカウヰスキー」と比較して、次のように呼ばれています。
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「サントリー」は、実は、ウイスキーの品質はそれほど良くはありませんが、「広告の天才」と言われた、佐治敬三さんの父親の鳥井信治郎から続く、宣伝の巧みさに定評があり、発展してきました。一方、「ニッカウヰスキー」は、「技術の天才」と言われた竹鶴政孝さんの作ったウイスキー会社です。竹鶴政孝さんは、ウイスキー作りの技術を、たった3ヶ月のスコットランドの酒造場の見習い期間の間に盗み、その高い技術を買われ、鳥井信治郎さんより年俸4,000円(現在で数千万円)で雇われて、サントリーの山崎蒸溜所の建設・酒造にも携わりました。そして、さらにウイスキーの品質を求め、よりスコットランドと環境の近い北海道に移住したほど、ウイスキーに深い愛情を持っていました。
「サントリー」の宣伝の巧みさは、サントリーの歴史を見ても分かります。初期のサントリーの主な略歴は、次のようになっています。
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「赤玉ポートワイン」は、鳥井商店の初期のヒット商品ですが、実は、国際的なワイン法で認められるワインではないため、ワインとは呼べないような代物です。赤玉ポートワインは、佐治敬三さんの父親である鳥井信治郎さんの時代、輸入したワインが売れなかったため、改良して作られた調味酒です。鳥井信治郎さんは、スペインからワインを仕入れて小分けで販売しましたが、当時の日本人は、ワインの酸味に慣れていないため不評でした。そのため、ワインに、水や甘味料、香料をブレンドすることで、日本人に馴染む味に変えて販売し、ヒットさせたわけです。さらに、実は「ポートワイン」というのは、ポルトガル産のブドウを作ったワインにしかつけることのできない名前でした。そのため、ポルトガル政府から抗議を受け、1978年に「赤玉スイートワイン」に商品名が変更されています。
このように、品質的にもネーミング的にも難点のある赤玉ポートワインでしたが、日本人好みの味だけでなく、鳥井信治郎さんの宣伝戦略により大ヒットを収めます。鳥井信治郎さんは、日本初の女性の肌を露出したポスターとして、片岡敏郎さんの作成したポスターを起用することにより、話題をさらいました。この赤玉ポートワインのヒットが、その後しばらく金食い虫となり続ける、壽屋のウイスキー事業を支える資金源となっています。日本のワインといえば、通の方にとっては、現代日本ワインの父と呼ばれる「麻井宇介」さんが思い浮かぶかもしれませんが、麻井宇介さんが現在のメルシャンに入社したのは1953年ですし、麻井宇介の弟子であるウスケボーイズが活躍したのは、さらに後年の話です。一方、鳥井信治郎さんは、麻井宇介さんよりも50年以上前に、広告力によって、ワインの名前を日本に知らしめることに成功しました。
「山崎蒸溜所」は、ウイスキーの蒸溜所として、大阪と京都の県境にある山崎に立てられましたが、北海道に蒸溜所を作りたかった竹鶴政孝さんの反対を、壽屋の社長である鳥井信治郎さんがプレゼンテーション力でねじ伏せて、山崎に作られました。ウイスキーの品質にこだわる竹鶴政孝さんは、スコッチウイスキーの本場と似た環境である北海道に、蒸留所を作りたいと考えていましたが、壽屋は大阪で創業していたため、北海道は遠すぎました。そのため、鳥井信治郎さんは、水の品質のよい場所を調査して山崎を推し、竹鶴政孝さんを説得して、山崎に蒸留所が作られることになりました。
「12年もの角瓶(後の角瓶)」は、正式には「サントリーウヰスキー12年」という名称で、壽屋が初めて商業的に成功したウイスキーですが、実は、樽熟成していないアルコールもブレンドしているため、正確には、国際的にウイスキーとは認められるか微妙な蒸留酒です。「角瓶」は、「白札」や「赤札」が売れなかったため、鳥井信治郎さんが改良して作ったブレンド酒です。「白札」や「赤札」は、スコッチウイスキー独特のピート臭が「煙臭い」と日本人に不評で全く売れず、鳥井信治郎さんは何とかしたいと考えていました。しかし、ウイスキーの品質にこだわって製造していた竹鶴政孝さんは、作り方を変えようとはしませんでした。また、鳥井信治郎さんはウイスキーの大量生産を目指していましたが、竹鶴政孝さんは大量生産には反対しており、経営方針の面でも、鳥井信治郎さんと竹鶴政孝さんは対立していたわけです。その後、1934年に竹鶴政孝さんの契約満了により、竹鶴政孝さんが去った後、鳥井信治郎さんは、ウイスキーを根本から見直しました。そして、ブレンドを繰り返して、1937年にピートの香りを抑えた「角瓶」を販売して、商業的にヒットしました。ちなみに、「12年もの」という名称も、ブレンドの一部の原酒に12年もののウイスキーを用いているだけで、12年熟成したウイスキーだけで作られていたわけではありません。そのため、その後、「12年もの」とは記載されなくなっています。
このように、品質的にもネーミング的にも難のある「12年もの角瓶」でしたが、角瓶の場合は、宣伝戦略で成功したというよりも、日本人好みの味と、時勢により成功を収めました。日本が戦争に突入していく中で、舶来のウイスキーの輸入を禁止したことで売上を伸ばし、さらに、海軍指定品となったことで、大量に納品できるようになったためです。
「トリス」や「サントリーオールド」も、同じようにブレンド酒で、モルト原酒よりも、ブレンドされたグレンウイスキーの方が分量が多く、水や香料も混ぜられています。ちなみに、「角瓶」・「トリス」・「サントリーオールド」の中では、「サントリーオールド」が最もモルト原酒の割合が多いですが、それでもモルト原酒の割合は27.6%で、グレンウイスキーが45.1%、水が26.1%です。
しかも、サントリーがブレンドに使っている「グレンウイスキー」は、樽貯蔵されていないと言われているため、実際は「グレーンウイスキー」とは呼べず、ただの穀物アルコール(飲料用エタノール)になります。そして、穀物アルコールは無色透明なので、色付けや風味付けも必要となってきます。
しかも、日本のウイスキーのルールでは、ブレンドの原酒となるモルト原酒でさえも、国産のウイスキーを使う必要もないため、海外製のモルト原酒も多く使われていると言われています。実際、サントリーは国内ウイスキーの6割近くのシェアを占めていますが、国内のウイスキー醸造所は、山崎蒸溜所と白洲蒸溜所の2ヶ所しかありません(知多蒸留所は、グレンウイスキーとスピリッツのみで、モルトは作っていない)。昨今のハイボールブームにより、樽醸造の必要なウイスキーの不足が心配されながらも、未だにサントリーがウイスキーを供給でき続けているのも、海外のモルト原酒を用いたり、樽醸造の必要のない穀物アルコールを使っているからなのかもしれません。
以上のように、サントリーは、そのままワインやウイスキーの表記をすると海外では違法となってしまうイミテーション品が多いため、根強いサントリーアンチも存在します。ただし、「サントリー」のウイスキーは品質に難があるものが多いと言われていますが、竹鶴政孝さんの作った「ニッカウヰスキー」でも、低品質で格安のブレンド酒である「ブラックニッカ」を製造しています。そのため、一概に、「サントリー = 低品質、ニッカ = 高品質」とも言い切れません。
ただし、一般的には、サントリーのウイスキーの品質を問題視する声も多いのは事実です。しかし、そのような逆境にも負けず、活発な販売戦略を行うことで、サントリーは洋酒部門で大成功をおさめたわけです。またサントリーは、戦後のテレビの普及とともに、テレビCMを積極的に行ったことでも知られています。
もちろん、サントリーのワインやウイスキーの品質が一概に悪いかと言えば、そうとも言い切れません。日本人好みの味にしたということは、お客さん重視のお酒作りであったとも言えます。「赤玉ポートワイン」の開発は、輸入ワインで大失敗したことがきっかけです。日本人の舌に合わないということでワインの返品の山が築かれましたが、鳥井信治郎さんはそれでもめげず、逆に、調合の鬼となって、香料と甘味料を買い込んでワインの調整に執念を燃やし、日本人好みのワインを作り出しました。
また、「12年もの角瓶(後の角瓶)」を完成させるときも、「白札」と「赤札」の失敗がきっかけとなっています。そして、失敗をバネにして、「(ウイスキーの)需要がないなら、需要をつくり出せばよい」と、日本人に馴染んでもらえるウイスキーを求めて、何年も原酒の改良とブレンドを行いました。当時の鳥井信治郎さんは、大阪本社・山崎蒸溜所・自宅にモルトの原酒を並べ、さらに自分直属の研究部も使って、何年もかけて調整を繰り返しました。ピートの炊き方も何度も変え、さらに、完成した原酒を銀座のバーなどの店主にテイスティングしてもらい、ヒントを仰ぐなど、地道な努力も積み重ねています。また、1937年に「角瓶」でヒットする前の1935年にもウイスキーの「特角」を販売して、挫折を経験しています。「白札」「赤札」「特角」と失敗が続いたため、「赤玉ポートワイン」の利益だけではウイスキー事業の継続は困難となり、サイドビジネスとして成功していた喫煙者向け歯磨き粉「スモカ歯磨」の製造権・商標を売却したりしながら、なんとかウイスキー事業を続けていた状態でした。そして、さらにウイスキーで失敗したら壽屋は破産しかねない危機的状況の中、なんとか「角瓶」をヒットさせて大成功を収め、ウイスキー事業を軌道に乗せられたわけです。
佐治敬三とは:1.広告の天才(後編)
佐治敬三とは、以上のような壽屋(現在のサントリー)の宣伝戦略の巧みさを、鳥井信治郎さんより受け継いだ人物です。佐治敬三さんは、1945年より壽屋に就職し、ウイスキーの普及を積極的に行いました。佐治敬三さんは、戦後で物資のない時代に粗悪な密造焼酎が出回っていることを憂慮し、安価ながら品質のよいウイスキーの開発を、当時に社長であった鳥井信治郎さんに進言しました。その結果、生まれたのが、格安ウイスキーの「トリス」で、モルト原酒の割合を通常のウイスキーよりさらに減らして5%にして、グレーンウイスキーの割合をさらに増やしました(現在は、モルト原酒の割合は10%)。
そして、佐治敬三さんは、父親の鳥井信治郎さんと同じくマーケティング重視の戦略を行い、次の2つの面において、その手腕を発揮しました。
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「1.トリスの普及」は、主に、「トリスバー」「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」「洋酒天国」の3つがあります。
「トリスバー」は、トリスをメインにしたスタンドバーのことで、同様のコンセプトであるサントリーバーも含めると、最盛期には3万5,000軒が展開し、「トリスバー文化」とまで言われるほど普及したバーのことです。トリスバーの起源は、久間瀬巳之助さんが、佐治敬三さんにスタンドバーをやりたいと提案し、「飲み物はトリスハイボールのみ、おつまみも塩まめだけ、均一価格70円」と提案したところ、佐治敬三さんは大いに賛成して、1950年に池袋に「どん底」というバーが開店したのが起源です。そして、壽屋が久間瀬巳之助さんの手法に目をつけ、トリスバーを「壽屋の洋酒のチェーンバー(チェーン展開のバー)」として大々的に普及させ、さらにトリスバーの看板をつけるよう推進したことで、一気にトリスバー文化が普及しました。
「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」は、1961年にサントリーが行ったキャンペーンのキャッチフレーズで、キャンペーンの1等がハワイ旅行だったこともあったため付けられました。このキャッチフレーズは、佐治敬三さんが作成に関わったわけではありませんが、行動経済成長期で海外旅行がもてはやされ始めてきた時代背景もあり、当時の流行語大賞となって、「トリス」の名前を日本に知らしめました。
「洋酒天国」は、1956年から1963年まで、計61号が刊行された雑誌で、トリスバー用のフリーペーパーとして作られたものです。洋酒天国は、当時、専務だった佐治敬三さんの許可の元で刊行され、雑誌名は佐治敬三さんが名付けました。洋酒天国には、後に有名となるライターが数多く携わっており、お酒の話題だけでなく、香水や西洋骨董、随筆、おつまみの話題といった、面白くて為になる情報が満載されていました。洋酒天国は、最盛期には20万部を印刷するほどの人気で、サントリーのウイスキーや社名を広めるのに、大きく役立ちました。
「2.ウイスキーの普及」は、主に、「ハイボール・水割り」「ボトルキープ」「二本箸作戦」の3つがあります。
「ハイボール・水割り」は、ウイスキーを日本に広める上で、佐治敬三が啓蒙しました。「ハイボール」は、ウイスキーを炭酸で割る飲み方で、語源はアメリカだと言われており、「ハイボール」の飲み方自体は、昔からありました。しかし、ウイスキーの「水割り」は、実は、日本のバーとサントリーが作り上げた日本独自の習慣です。海外でのウイスキーの飲み方といえば、ウイスキーは香りや風味を楽しむお酒なので、原液をロックでゆっくり楽しむのが普通です。そのため本来は、酒造りに力を入れている酒造メーカーとしても、原液で楽しんでもらいたいのが普通ですが、サントリーは、薄めて飲むことを推奨しているわけです。サントリーが水割りを勧める理由としては、日本人にとって、ウイスキーは香りやアルコール度数が強すぎるためだと説明しています。しかし実際は、サントリーのウイスキーはイミテーションウイスキーなので、「水で薄めることにより、香りや風味をごませるからなのではないか」とも言われています。
「ボトルキープ」も、ウイスキーを日本に広める上で、佐治敬三が啓蒙しました。「ボトルキープ」とは、飲み屋でウイスキーを瓶ごと購入して、ボトルに名前を記入してお店にキープしておく飲み方で、次回来たときに、前回の続きのウイスキーボトルを飲めるサービスです。ボトルで買うと、お客さんにとっては1杯あたりの料金が割安になりますし、お店はリピート客になってもらえるので商売繁盛になるという、WinWinのサービスです。実は、この「ボトルキープ」も、戦後に生まれた文化で、日本のバーとサントリーが普及させた、日本独自の習慣です。ボトルキープ自体は、1964年に、大阪の北新地のサントリークラブで生まれたと言われていますが、そこに目を付けて普及させたのが、佐治敬三です。ウイスキーをボトルキープできるようにすることで、ウイスキーを一般大衆の中に浸透させることに成功しました。
「二本箸作戦」は、ウイスキーを日本料理と楽しめるよう、佐治敬三が啓蒙しました。昔は、日本料理には日本酒、というのが定番でした。そのため、1970年代に、佐治敬三はその常識を覆すべく、割烹やお寿司屋さんなど、ありとあらゆる日本料理店へ集中的に営業を行い、ウイスキーの普及を行いました。当時、サントリーの東京支社が日本橋にあったことから「二本橋作戦」と名付けられ、ウイスキーの普及に役立ちました。
以上のように、佐治敬三さんが1945年に壽屋に入社し、1963年に社長に就任して社名をサントリーに変え、1990年にサントリーの社長を去るまでの間に、佐治敬三さんは、トリスを含むウイスキーの普及に貢献し、日本の文化に、水割りやボトルキープという新しい文化を付け加えるほどの影響を与えました。佐治敬三さんが、広告・マーケティング主導の経営戦略で豪腕を奮っていた時期は、ちょうど、1950年代の第一次ハイボールブームの時期や、1953年の酒税法改定以降に起こった第一次洋酒ブームの頃であり、その流行を佐治敬三さんが牽引し、サラリーマン層へウイスキーを普及させたとも言えます。そして、佐治敬三さんの活躍により、サントリーのウイスキー事業は大成功を収め、46年間赤字を出し続けるビール事業を支える存在となりました。
なお、佐治敬三さんから続くサントリーの広告重視の経営戦略はその後も受け継がれ、1980年代中期以降に起きたウイスキーの売上の低迷も、広告戦略で救っています。サントリーのウイスキー「サントリーオールド」は、1980年前後までは洋酒販売の首位で最盛期を誇っていましたが、1980年代中期に首位を奪われた「オールドショック」により、ウイスキー事業の売上が低迷していた時期がありました。しかし、サントリーは、女性へのハイボールの普及を狙って、女優の小雪さんを2007年からCMに起用して、小雪さんの妊娠により降板となる2011年までCM戦略を行いました。角瓶・ハイボールのCMで流れる「ウイスキーがお好きでしょ」のフレーズではじまる小雪さんのCMにより、女性もハイボールを飲んでいいという風潮が広まり、さらに、健康ブームによるメディアの追い風により、「プリン体0」としてハイボールが取り上げたことで、2009年に再び角ハイボールをヒットさせ、第二次ハイボールブームを起こしました。
サントリーのCMは、その他にも、「I wanna be loved by you」の曲が耳に残る「プレミアムモルツ」や、ボスジャンや宇宙人ジョーンズで有名な「BOSS」など、印象に残るものが多くあります。また、女性へのボトルキープを狙った「ふんわり鏡月」も、印象深いでしょう。攻める広告で知られているサントリーは、2017年にはビール「頂」で性的なイメージを与えるテレビCMで炎上し、WebCMのみで公開される事態になったこともあります。
なお、佐治敬三さんの広告戦略で名を馳せたサントリー宣伝部は、「トリスを飲んでHawaiiへ行こう!」や「洋酒天国」で活躍した後、1964年に、専務取締役となった佐治敬三さんらの出資を受けて、サントリーのグループ企業となる広告宣伝会社「サン・アド」へと移り、現在も、広告を手掛ける会社として存続しています。
佐治敬三とは:2.やってみなはれ(前編)
佐治敬三とは、「2.やってみなはれ」という精神で行動した人物として知られています。
もともと、佐治敬三さんは、行動を起こすよりも、頭で考えるタイプであったため、仕事のことであれやこれやと鳥井信治郎さんに、よく話をしていました。そのため、鳥井信治郎さんにしびれを切らされ、とりあえずあれこれ言うよりも試してみるよう促され、「やってみなはれ」と言われました。この出来事以降、佐治敬三さんは、何事もとりあえず試してみる「やってみなはれ」精神で行動するようになり、この「やってみなはれ」精神が、その後のサントリーの経営方針の一つとなりました。
佐治敬三さんが、この「やってみなはれ」精神で始めた事業で最も有名なのが、佐治敬三さんが社長になって本格化したビール事業です。実は、壽屋(現在のサントリー)は、前社長の鳥井信治郎さんの頃よりビール事業に参入していました。鳥井信治郎さんは、「赤玉ポートワイン」がヒットした後、2本柱による事業を経営を考えていました。それが、商品化に時間のかかる「ウイスキー事業」と、製造期間の短い「ビール事業」だったわけです。そのため、「赤玉ポートワイン」で得た資金を元にして、1928年に横浜の「日英醸造(カスケードビール)」を買収して「新カスケードビール」を販売、さらに1930年には「オラガビール」と名称を変更して、低価格競争をしかけましたが、ビール業界大手各社からの反撃に合いました。さらに大手メーカーより「オラガビールの瓶に大手メーカーの瓶が使用されている」と裁判を起こされて敗訴し、ビール事業からの撤退を余儀なくされ、ビール事業を売却したという経緯がありました。
鳥井信治郎さんは、その後も、ビール事業に再度参入したいとは考えていましたが、なかなかチャンスはありませんでした。そんな中、佐治敬三さんは、「やってみなはれ」の精神で、まだ社長に就任する前の1960年初頭より、ビール事業への参入を決意して、社員と共に、製造・販売の技術を学びに、デンマークに赴きました。
しかし、当時のビール業界は、大手3社がほぼ独占している寡占状態であり、1位のキリン、2位のアサヒ、3位のサッポロ以外が入る余地のない状態でした。そのため、1957年には、醸造用アルコールで日本2位だった宝酒造がビール業界に参入しましたが、酒問屋にビールの取り扱いを断られて販路拡大できず、1967年には撤退しています。そんな中、ビール業界に進出するのは、無謀とも言える取り組みでした。しかし、佐治敬三さんは、絶えず成長する企業を目指してビール業界に参入し、その心意気について、後に「洋酒が絶好調で作れば何ぼでも売れる状態。しかし、そんな努力しなくても売れる状態に慣れれば、会社がやがて傾く。だからビールに再進出した」と述べています。
そして、1963年に社長に就任してからは、ビール事業という新天地に向かうという意味を込めて社名を変更し、壽屋のウイスキー1号の商品名であった「サントリー」から名前を取って「サントリー」と社名変更しました。なお、ウイスキーの商品名の「サントリー」とは、赤玉ポートワインの「赤玉」を太陽に見立てた「サン」と、鳥井信治郎の「トリイ」から取って名付けられています。
しかし、サントリーのビール事業は、佐治敬三さんの意気込みとは裏腹に、当然のごとく苦戦が続き、参入当初のシェアは1.0%しかなく、惨敗が続いていました。しかし、「ライオンになりたい! そして、キリン(キリンビールの当時のシェアは、No.1だった)の足を食いたい!」と叫び、ビール事業を続けました。そして、45年間ビール事業で赤字を出し続けた、ようやく黒字に転じたのは、46年目の2008年の話です。
ビール事業が黒字に転じたのは、1999年に佐治敬三さんが亡くなってから、さらに9年目になります。また、ビール事業はウイスキーのように長期熟成も必要ないため、本来は、短期間で収益を上げなければいけません。それにも関わらず、45年間赤字に甘んじていたので、佐治敬三さんのビール事業への参入は失敗だったと考えることもできます。しかし一方で、新しい事業に挑戦し、社員共通の乗り越える壁を作ることで、サントリーの会社自体が活性化したことを考えると、実際は、佐治敬三さんの思い描いた通りに事が進んだとも言えます。
サントリーのビール事業は、当初は、宝酒造と同じく流通網に乗せること自体に苦慮し、卸売店に出向いたときも、「洋酒のサントリー」として営業に出向いたときは食事まで出されるほど歓迎される一方、「ビールのサントリー」として出向いたときは、お茶の1杯も出ませんでした。そのため、全社員1日セールスマン作戦を行ったり、バーのグラス洗いを手伝いながら営業を続けました。また、全国的に急成長していたキャバレーに目をつけ、キャバレーのオープン時に金銭的援助を行ったり、客寄せを手伝ったり、さらに、キャバレーのお客さんにサントリーのビールの栓を開けてセットしたりもしました。このような、苦戦での中で四苦八苦しながら営業を続けることで、サントリー自体が活性化した面は見逃せません。
もちろん、ビール事業では、営業だけでなく、次のような様々な新商品の開発も、積極的に行われました。
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1967年に販売された「純生」は、あまりヒットしなかったものの、デンマークのビールをモデルにした、クリーミータイプの泡が魅力の生ビールです。「純生」は、NASAの開発したミクロフィルターで酵母菌を除去することにより、熱処理していなくても長期保存可能な生ビールでしたが、大手ビール会社からの反発を受け、生ビールの定義を変えてしまった話題の商品でした。しかし、話題にはなったものの、「サントリーのビール」自体は知名度が低かったため、ほとんど売上の向上には役立ちませんでした。
しかし、その後も新商品の開発が続き、徐々にサントリーのビールの名前も浸透していきます。そして、2005年のプレミアムモルツが大ヒットし、さらに2007年に第三のビール「金麦」で追い風に乗った、46年目の2008年に、ようやくビール事業が黒字に転じました。そして、現在では、プレミアムビールの分野では、長年首位を守ってきたサッポロの「エビス」を抜き、サントリーの「プレミアムモルツ」がNo.1となっています。また、日本のビールのシェアも、2018年で見ると、1位のアサヒの39.1%、2位のキリンビールの31.8%に次いで、3位のサントリーは16.0%となっており、4位のサッポロビールの12.1%を抜くまでに成長しています。
佐治敬三とは:2.やってみなはれ(後編)
佐治敬三さんとは、「やってみなはれ」の精神を体現した経営者ですが、「やってみなはれ」の精神は、その後のサントリーの社長にも、次のように受け継がれていきました。
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2代目社長、佐治敬三さんの時代の、「やってみなはれ」精神は、やはりビール事業です。また、実は、1984年には、中国でもビールを販売すべく、中国にサントリーの現地法人を作ったりもしています。そのため、中国でのビール事業のみで言うと、早くより参入していたサントリーの方が、日本ビール業界現在1位のアサヒや、現在2位のキリンよりも優位な立場を誇っており、2016年時点で、アサヒの中国でのシェアが0.1%、キリンの中国でのシェアが0.2%である一方、サントリーは1.1%を誇っています。その他の佐治敬三さんの代表的な活躍は、社長に就任する以前から行われていたウイスキーの普及や、清涼飲料水事業への積極的な参加があげられます。
3代目社長、鳥井信一郎さんの時代の「やってみはなれ」精神は、清涼飲料水事業の発展です。佐治敬三さんが参入した飲料水事業を、商売として軌道に乗せていったのが、鳥井信一郎さんの大きな活躍と言え、後にロングセラーとなってサントリーを支えるメガヒット商品の清涼飲料を多く生み出しました。そんなヒット商品の中でも、ミネラルウォーターの「天然水」シリーズは、2018年に清涼飲料水で日本一となり、1990年より27年間トップシェアを誇っていた日本コカ・コーラの「ジョージア」シリーズを抜く快挙を成し遂げました。また、缶コーヒーの「BOSS」は、質重視の開発の指示として「目の前の売上数字にとらわれて、拙速な仕事をするな。完成度の高い缶コーヒーを作れ」との掛け声の元、開発期間も通常の6~8ヶ月より長い20ヶ月を費やして、完成されました。BOSS販売当時の缶コーヒーの主流は250gのロング缶が主流でしたが、短い休憩の間に飲むのにちょうど良いサイズとして190gのショート缶を採用して、「コーヒー = ショート缶」の流れを生み出しました。
4代目社長、佐治信忠さんの時代の「やってみなはれ」精神は、「海外戦略」・「M&A」・「子会社の上場」・「4代続いた同族経営への終止符」です。「海外戦略」は、佐治信忠さんがサントリーの社長に就任する前の「サントリーインターナショナル」の社長時代に、佐治信忠さんが指揮を取って行われ、ウイスキーによる収益をメロンリキュール「MIDORI」の販路拡大に当てて、大ヒットさせました。「M&A」は、ペプシコーラのチェーン会社を買収したり、オレンジーナの会社を買収したり、社長引退直前には158億ドル(約1兆6,000億円)という巨額の資金でアメリカの蒸留酒最大手であるビーム社を買収したことにより、サントリーを世界3位の蒸留酒会社にしました。「子会社の上場」は、今まで非上場を貫いていたサントリーの新たな試みです。サントリーは、子会社で清涼飲料水部門を担当していた「サントリー食品インターナショナル」上場しました。「4代続いた同族経営への終止符」は、サントリー外から、新たに社長を招き入れたことです。サントリーに新しい風をいれるため、ローソンの社長であった新浪剛史さんに社長を譲りました。
5代目社長、新浪剛史さんの時代の「やってみなはれ」精神は、まだ未知数な段階です。しかし、サントリーの今までの流れでいうと、1代目社長の事業拡大を2代目社長が安定化させ、2代目社長の事業拡張を3代目社長が安定化させるという構図があるので、4代目社長の事業拡張を5代目社長の新浪剛史さんが安定化させていくのかもしれません。
なお、サントリーの「やってみなはれ」の精神は、もちろん、成功ばかりではありません。例えば、佐治敬三さんのビール事業では長いこと赤字を出し続けましたし、佐治敬三さんは、他にも、海外の工場建設で失敗しています。1963年に海外進出のために、メキシコにウイスキー工場を作りましたが、高地だったためウイスキーの揮発が多く出荷できず、「サントリー最大の失敗」と呼ばれるほどの失敗も犯しています。
しかし、以上のような挑戦的なサントリーの企業体質が「自由な社風」を生み出し続けたといっても、過言ではありません。サントリーと言えば、同族経営の非上場企業として有名ですが、4代続いた同族経営で、さらに非上場という秘密主義の中でも組織が官僚化せず、多くの「やんちゃボーイ」や「やんちゃガール」が活躍の場を与えられた、稀有な会社であるとも言えます。
佐治敬三とは:まとめ
佐治敬三とは、広告マーケティング重視の戦略で、サントリーを巨大な企業にした人物です。上記以外のマーケティング戦略としても、ウイスキーには「世界5大ウイスキー」という呼び方がありますが、その呼び方も出典が曖昧であり、佐治敬三さんが作った可能性があります。5大ウイスキーとは、ウイスキーの元祖「アイリッシュ」、スモーキーな「スコッチ」、バーボンでおなじみ「アメリカン」、ブレンドでライトな「カナディアン」、繊細な「ジャパニーズ」ですが、実は、「世界5大ウイスキー」を、いつ、誰が呼び出したのか、定かではありません。しかし、ジャパニーズウイスキーの含まれた「世界5大ウイスキー」は、サントリーのホームページにも大きく掲載され、ジャパニーズウイスキーとしてサントリーの自社ウイスキーの「響」「山崎」「白洲」のみが掲載されています。一方、サントリーの売れ筋商品である「トリス」「角瓶」「オールド」は、ジャパニーズウイスキーの欄には表示されていません。このような作為的な宣伝戦略も、佐治敬三さんやサントリーの凄みと言えるかもしれません。
同じように、サントリーの広告戦略の一貫として、現在でも、6本入りのプレミアムモルツを買うと、サントリーのラベルのついたビールグラスがついてきたりします。また、居酒屋さんでハイボールを注文すると、ハイボール用のグラスとして角瓶を模した格子状のグラスで出てきます。このように、知らず知らずのうちに生活の中に溶け込ませているサントリーの販売戦略には、感服すべきものがあるといえるでしょう。
一方、佐治敬三さんの業績として、文化面での業績を上げる人も多くいます。サントリーは、鳥井信治郎の時代に掲げらられた「利益三分主義」のもと、社会・文化・スポーツへの貢献を目指しており、サントリーを「生活文化企業」と位置づけ、独自の企業文化を持っていることでも有名です。特に佐治敬三さんは、文化面の力を入れていたことでも有名で、次のような過活動も行っています。
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また、環境と共存するサントリーの理念として、サントリーのサステナビリティ(環境に配慮した持続可能性)には「水と生きる」が掲げられています。スポーツでは、佐治敬三さんは相撲の若貴のタニマチとしても有名でした。
この他にも、サントリーは、1990年に青いバラの製作プロジェクトを行っていたことでも有名です。昔よりバラの品種改良を行って青いバラを作ろうとする試みはありましたが、バラにはそもそも青の色素がないことが分かり、青いバラ「ブルーローズ」を作ることは不可能だとされてきました。そのため、遺伝子操作を行うことで青いバラを作る試みが行われ、1995年に遺伝子操作で初めて花の色を変えることに成功した青いカーネーションが開発され、1997年に青いカーネーション「ムーンダスト」が販売されました。そして2004年に青いバラを作ることに成功し、2008年に青いバラ「アプローズ」が販売されるようになりました。
以上のように、サントリーや佐治敬三さんは、文化事業にも積極的に関与してきた人物ですが、佐治敬三さんの文化人としての資質については、疑問視する声も多く、特に1988年に起きた「東北熊襲発言(くまそはつげん)」という失言は有名です。当時、首都機能を地方に移転するという話が話題になっていましたが、佐治敬三さんが「仙台遷都など阿呆なことを考えている人がいるようだが、東北は熊襲(くまそ)の産地。文化的程度も極めて低い。」と発言し、東北地方の人を「未開人」や「蛮族」と見なすような発言をして、仙台を中心とした東北でサントリーの商品の不買運動が起きました。特に、仙台の繁華街の酒屋の店頭では、サントリーの商品が全面撤去されるほどで、サントリーの東北地方での売上が激減するという事態に陥ります。しかし、佐治敬三さん自身は、サントリーのオーナー社長が謝罪すると沽券に関わるということで、当初は本人は謝罪を行わず、副社長に対応させたため、さらに不評を買うということになりました。
そのため、文化面での佐治敬三さんの賛否は分かれますが、一方で、サントリーは、シャープと並んで「大いなる中小企業」とも呼ばれる通り、飾らない会社であるため、ファンが多いという面もあります。サントリーは、宣伝部は東京にあるものの、本社は未だに東京ではなく大阪にあります。また、佐治敬三さん自身も、1985年に大阪商工会議所会頭に就任して、地方の経済団体で活躍はしていますが、経団連など中央の経済界には進出していません。このような、地元優先の体質も、佐治敬三さんの魅力といえるのかもしれません。
また、やはり経営手腕のみに限って言えば、佐治敬三さんの力量は、目を見張るものがあるというのも事実でしょう。それを裏付けるように、2019年の日本の長者番付では、サントリーの4代目社長で、佐治敬三さんの長男でもある佐治信忠さんの個人資産は、1兆2,000億円で、4位に位置づけています。佐治信忠さんは、非上場であるにも関わらず、5位の楽天の三木谷浩史さんを抜く資産を有していますが、その佐治信忠さんの資産の礎を築いたのが、佐治敬三さんであると言えます。