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ミッキーマウスの誕生日いつ:ミッキーマウスの誕生
「ミッキーマウスの誕生日いつ?」という質問については、ミッキーマウスの作品『蒸気船ウィリー』の公開日である、1928年11月18日が、ミッキーマウスの誕生日になります。ただし、『蒸気船ウィリー』は、ミッキーマウスの3作品目であり、ミッキーマウスの初めての作品ではありません。
「ミッキーマウスの誕生日いつ?」の質問とは異なりますが、ミッキーマウスの誕生は、「ディズニー」の創業者である「ウォルトディズニー」が、従業員を多数引き抜かれて絶望の底へ叩き落された頃の、列車の中で生まれました。
ウォルトディズニーは、ニューヨークからロサンゼルスへ向かう列車の中で、列車に揺られながら、1匹のネズミが頭をよぎりました。そのネズミは、以前、アメリカの内陸部にあるミズーリ州のカンザスシティで働いていたときに、オフィスで見たネズミでした。
そして、ウォルトディズニーは、そのネズミに「モーティマー」という名前を考えました。しかし、ウォルトディズニーの妻であるリリアンに「親しみにくいんじゃないの」と却下され、代わりに、妻のリリアンに提案されたのが「ミッキー」でした。そのため、ミッキーマウスの生みの親はウォルトディズニーで、ミッキーマウスの名付けの親は、妻のリリアンになります。そして、ウォルトディズニーも、「ミッキー」という名前を気に入り、名前はそれで行こうということになりました。
そして、列車を降りる頃には、ウォルトディズニーは、すでにミッキーマウスの第一話のストーリーまで考えていました。
ミッキーマウスの誕生日いつ:ミッキーマウスの作品の誕生
ウォルトディズニーにより作られたミッキーマウスを主人公として作られた一番初めの作品は、次の順番で作られました。
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しかし、この2つの作品の評判は、今ひとつでした。そこで、ウォルトディズニーは、「このネズミが言葉を発したらどうだろうか?」というアイデアをひねり出しました。
というのも、この頃より数ヶ月前の1927年10月に、長編映画として世界初のトーキー映画『ジャズ・シンガー』が公開されたばかりだったためです。トーキー映画とは、製造と音声が同期した映画のことで、「talking picture(トーキング・ピクチャー)」から取られた言葉です。当時は、映像と音声は別々であり、映画フィルムとは別に、レコード盤に録音したものを再生していました。しかし、サウンドカメラの発明によって同期が簡単となり、実用化が少しずつ行われている最中でした。そして、ウォルトディズニーは、音声が映画に革命をもたらすことを感じ取ったわけです。
そこで、ウォルトディズニーの直感を実現させるべく、アニメーション製作が行われましたが、現場では困難を極めました。録音施設を所有するスタジオを手配しても、音とフィルムが合わず、録音日も次第にかさんでいきました。しかし、ウォルトディズニーは、未開拓分野への挑戦を止めようとはしませんでした。
そして、ついに上映された『蒸気船ウィリー』の公開日である1928年11月18日が、「ミッキーマウスの誕生日いつ?」の答えの日になるわけです。ミッキーマウスは、3作目の『蒸気船ウィリー』にしてようやく、予想をはるかに超えた反響を得て、ミッキーマウスも、一躍人気となりました。
なお、ミッキーマウスの声優は、初の音声入りミッキーマウスである1928年の『蒸気船ウィリー』から1947年の作品までは、ウォルトディズニーが声優を務めています。
ミッキーマウスの誕生日いつ:ミッキーマウスの危機
ミッキーマウスは商業的に成功を納めましたが、ミッキーマウスの映画を配給していたパット・パワーズは、ミッキー人気を自分のものにしようと企んでいました。そのため、パワーズからの送金はまばらになってしまい、その額も減少していきました。そして、パワーズは、大金をちらつかせて、ウォルトディズニーを、自分の元で働かせようと画策しました。
その結果、ウォルトディズニーと下積み時代から共に仕事をしてきた、良き理解者でもあったアブ・アイワークスは、パワーズの引き抜きに応じてしまいます。しかし、ウォルトディズニーは、いくら大金を積まれても応じることはありませんでした。
ウォルトディズニーは、その後、パワーズとの契約を打ち切り、コロンビア会社と契約し、ミッキーマウスの映画もシリーズ化しました。そして、1931年には社員数が75人にまで増え、順調に成功も積み重ねていきました。
現在でも、大人気のミッキーマウスですが、もし、ウォルトディズニーがパワーズの元で働くようになっていたら、ミッキーマウスは、現在まで生き残っていなかったのかもしれません。