井深大とは

井深大とは

井深大とは、「いぶかまさる」と読み、ソニーの共同創業者の1人です。戦前の1908年に生まれ、1997年に89歳で亡くなりました。

井深大さんには、次のような特徴があります。

  1. 大衆に直結した商品をやりたい
  2. 生活に革命を生む製品を作る

次に、それぞれについて説明していきます。

井深大とは:1.大衆に直結した商品をやりたい

井深大とは、「1.大衆に直結した商品をやりたい」と考えた人でした。

井深大さんは、会津藩の家老の家系であり、1908年に栃木県で生まれました。2歳のとき、電気系の技術者であった父親は、雪で転んでカリエスという骨の病気にかかり亡くなっています。その後、愛知県の祖父の元に戻り、一度、母親と上京しますが、母親が小2で再婚してからは、再び一人、祖父の元に戻っての生活となりました。母親のいない寂しさからか、興味は科学へと向い、実験を繰り返します。高校は、当時、日本一難関だと言われていた神戸一中(現在の神戸高校)に入学するも、勉強そっちのけで機械いじりをする毎日を過ごしました。

早稲田大学理工学部に入学し、学生時代から奇抜な発明をして、早稲田時代に発明した「走るネオン」はパリ万国博覧会では金賞を獲得。大学卒業後、家電メーカー大手の「東京芝浦電気(現在の東芝)」の入社試験を受けて落ちたこともありました。その後、最終的に、研究開発の仕事のできる「日本光音工業」に行き着きましたが、社長に「いろいろなものを発明する能力」を買われて出資を受け、軍需電子機器の開発を行う「日本測定器株式会社」を立ち上げました。「日本測定器株式会社」では、これまで世の中になかった測定器をつくる事を目指し、軍部からの様々な受注をこなしました。このとき、後にソニーの共同創業者で国際派マネジャーとして高い評価を受けることとなる、13歳年下の盛田昭夫さんと知り合いました。当時、井深大さんは36歳で、盛田昭夫さんは23歳でしたが、盛田昭夫さんは井深大さんに対して「技術者としての見識の高さ」を感じ、井深大さんは盛田昭夫さんに対して「こんなに洗練された人間が世の中にいるのか」と驚きました。

戦時中は疎開のため長野で過ごし、敗戦の翌日に再び東京へ上京し、37歳時の1945年、個人企業として「東京通信研究所」と立ち上げました。井深大さんは、創業当初は、貯金を崩しながら社員に給料をわたしつつ、会社の存続のためにラジオの修理の事業を行いました。また、当時は、外国の放送を聞くことができないよう、短波放送を切られたラジオがたくさんあったため、短波放送の聞けるコンバーター(周波数変換器)を開発し、ラジオの改造も行いました。そして、ラジオの修理が朝日新聞のコラムで紹介されたのが、偶然、盛田昭夫さんの目に止まり、2人は合流。その後も、井深大さんは「日常生活に必要な商品を作りたい」と電気炊飯器を開発しましたが、失敗。しかし、真空管電圧計をなんとか官庁に納入する仕事を請け負い、1945年の年末には、なんとか仕事が軌道に乗ってきました。

そして、1946年、ソニーの前身となる「東京通信工業(東通工)」を盛田昭夫さんと創業し、社長には井深大さんの義父で文部大臣の経験もあった前田多門さんが就任し、取締役に盛田昭夫さん、専務に井深大さんが就きました。当時の「東通工」は、まだ総勢20人という小所帯で、資本金は19万円(現在の貨幣価値で約760万円)しかなく、機械設備もない状態でした。しかし、設立式当日、井深大さんは、次のようにあいさつして、高い志を打ち立てていました。

  • 大きな会社と同じことをやったのでは、我々はかなわない。しかし、技術の隙間はいくらでもある。我々は大会社ではできないことをやり、技術の力でもって祖国復興に役立てよう。

しかし、1946年の設立当初は、戦後の物不足のため、工具も全て自家製で、真空管電圧計の注文をもらっても、なかなか真空管を手に入れることができず、関東中の店を駆け回ったり、空襲の焼け跡の中から金物や配線の材料をかき集めて、注文をこなす毎日でした。さらに、1946年2月には「金融緊急措置例」により、新札への切り替えも行われて資金繰りにも追われため、井深大さんは、和紙の間にニクロム線を入れた「電器座布団」を発明。電器座布団が大ヒットして、なんとか資金を得ることに成功しました。その後も、NHK用に無線中継受信機を作成する仕事などを行い、官公庁や放送局からの仕事は増えていきました。

しかし、井深大さんは、「もっと大衆に直結した商品をやりたい」という思いが、常にありました。そして1948年頃、井深大さんが目をつけたのが、銅線に録音する「ワイヤーレコーダー」という録音機の存在でした。さらに、紙テープに録音するテープレコーダーの存在も知り、GHQ内にある情報教育局に無理を言ってテープレコーダーを聞かせてもらったところ、ワイヤーとは比べ物にならないほど音がよいことが判明。井深大さんは、会社の経理を説得して30万円(現在の貨幣価値で約300万円)の開発費を元に、テープレコーダーの発明を行い、次のような経緯で完成にまで至ります。

  • 1949年:試作機1号完成
  • 1950年:国産初のテープレコーダーG型、販売開始
  • 1951年:改良版のテープレコーダーH型、販売開始
  • 1953年:電池式の携帯テープレコーダーR-1型、販売開始

当時のテープレコーダーは、アメリカでもできたばかりの貴重品で、参考書も何もなく、唯一あった本の中の記述も、たった2行しかありませんでした。そのため、テープのベースや磁器素材などは、全て手探りで実験して開発しました。テープのベースをセロファンではなく紙にすることに決めた後は、製紙会社と紙を漉くところからはじめました。また、紙ベースに塗る鉄粉も暗中模索の中で色々試し、自作した黒色マグネタイトを塗ることで解決して、ようやく音が出るまでに至りました。

その後も、NHKにテープレコーダーがあることを聞きつけてはスタッフが見にいき、さらにモーターやベルト用のゴムの選定で苦労を重ねがら、ようやく1949年に試作機1号が完成。そして、数々の試行錯誤を重ね、徹夜の連続の末、ついに、テープレコーダーを初めて目にしてから1年を経た1950年1月、国産初のテープレコーダーとなる、業務用のG型の販売が開始されました。G型の「G」は、「Goverment(ガバメント)」の頭文字からとったものです。

しかし、G型は、価格が16万円(現在の貨幣価値で約132万円)と高価で、さらに重さが35kgもあったため、全く売れませんでした。井深大さんは、「良いものさえ作れば、どんどん売れるはずだ」と考えており、確かに、皆、物珍しがって、テープレコーダーに興味を示してくれたり、音を録音して再生して試してみたりはしてくれますが、購入までには至りませんでした。そこで、G型を改良して、本格的普及型テープレコーダーとして、1951年3月にH型を完成させ、価格は8万4,000円(現在の貨幣価値で約59万円)、重さ13kgにまで減らすことに成功しました。

さらに、マーケティングにも力をいれ、当時、視聴覚教育の普及が教育現場で叫ばれていたため、東京通信工業の社内に「録音教育研究会」という会を作り、「視聴覚教育のあり方」というテーマで講演会を行い、全国行脚して普及活動を行いました。その結果、講演の以来もひっきりなしに続くようになってH型も売れるようになり、1951年10月の決算では、当時の金額で売上1億2,000万円(現在で8億4,000万円)、利益900万円(現在で6,325万円)を記録し、その額に井深大さん自身も驚き、「新商品は開発するまでは大変だが、成功するとなんと強力なものか」と語ったといいます。

この東京通信工業(後のソニー)のマーケティングは、「自ら市場を開拓し、活路を見出した」ということから、「溝を掘って、水を流せ」という手法として、語り継がれていくこととなります。この東京通信工業の販売戦略は、日本の家庭用テープレコーダーの普及に大きな役割を果たし、学校で啓蒙活動を行った結果、市場が開拓されていき、少しずつ一般家庭に対して普及していっていました。この販売戦略の影響は、後に井深大さんがアメリカに視察に行ったときの印象からも窺い知ることができました。井深大さんは、1953年にアメリカに渡り、アメリカのテープレコーダーの普及状況を確認しましたが、日本とは違い、アメリカでは民間用にはほとんど普及していない状況でした。

東京通信工業のテープレコーダーは、その後も改良が続けられて小型化と低価格化が進み、1952年3月には「P型」、1953年9月には電池式の携帯テープレコーダーである「R-1型」が販売され、「R-1型」は、重さ5kg以下、価格5万円以下(現在で31万円以下)にまで低価格化が進み、さらに1954年9月には、R-1型の改良版である「TC301型」が販売されました。

テープレコーダーの人気に伴い、1954年5月には、今まであった東京品川の工場に加え、新たに、テープレコーダーの消去ヘッドの共同研究を行っていた東北大学の近くである仙台に、テープレコーダー増産のための新工場の開設も行いました。

井深大さんは、常に「大衆と直結した商品を作りたい」という思いを持って商売を行っていましたが、必ずしも成功ばかりだったわけではありません。しかし、常に開発に前向きに取り組んだおかげで、創業6年目にして、ようやく国産初のテープレコーダーとして、苦労が実を結んだわけです。井深大さんは、テープレコーダーG型完成後の、42歳頃の1950年に、東京通信工業(後のソニー)の社長に就任し、共同創業者の盛田昭夫さんに63歳頃の1971年に引き継ぐまで社長を続けていますが、井森大さんの大衆を意識した商品開発は、ソニーの開発方針の基礎となっていきました。

井深大とは:2.生活に革命を生む製品を作る

井深大とは、「2.生活に革命を生む製品を作る」ことを目指しました。井深大さんは、42歳頃の1950年に社長に就任後は、直接、開発に携わることはなくなりましたが、「大衆に直結した商品をやりたい」と常々考えながら、技術者に指示を出していました。その間に、1955年3月には海外での販売も考慮して「SONY」の名称を使うようになり、1958年1月1日には「ソニー株式会社」と社名を変更。そんな中で、井深大さんは挑戦を続け、次のような主力商品を世に送り出していきました。

  1. 第1の商品:テープレコーダー(1950年に業務用、1951年に家庭用でヒット)
  2. 第2の商品:トランジスタラジオ(1955年に家庭用、1957年に小型化でヒット)
  3. 第3の商品:トランジスタテレビ(1959年に家庭用、1962年に安定化でヒット)
  4. 第4の商品:VTR、(1963年に業務用、1964に家庭用)
  5. 第5の商品:カラーテレビ(1968年に家庭用)

「第1の商品:テープレコーダー」は、ワイヤーレコーダーの国産化への挑戦から始まりました。その後、音質のよいテープレコーダーへとシフトし、1950年にはじまるG型、その後に続く1951年の家庭用のH型といった、東京通信工業の1つめの主力商品として結実しました。テープレコーダーでの成功は、テープレコーダーで潤うようになった資金や新商品開発の開発で困難が続き、長期化していく研究費の一助ともなりました。また同時に、その後のトランジスタ開発への布石となる、人材の確保の足がかりともなっています。

「第2の商品:トランジスタラジオ」は、井深大さんのひらめきにより始まった、新しい分野への挑戦です。トランジスタへの関心は、1952年に、井深大さんが家庭用テープレコーダーを海外で売り込むため、アメリカに渡ったことがきっかけでした。渡米時、偶然のひらめきで、1948年に発明された「トランジスタ」という半導体をやってみようと思いついたのでした。そして、東京通信工業(後のソニー)の「トランジスタ」への参入は、その後の東京通信工業の方向性を大きく決定づけるものとなり、日本の電子工業が、真空管時代からトランジスタ時代へと移行する契機ともなりました。

井深大さんは、1952年の渡米の最後に、トランジスタの特許を持つアメリカのウエスタン・エレクトリック社(WE社)を訪問し、翌1953年に、特許料2万5,000ドル(約900万円、現在で約5,618万円)という大金を払ってトランジスタの生産の契約をし、日本でトランジスタを作ることにしました。

しかし、当時のトランジスタの一般的な生産力は、歩留まり(ぶどまり、不良品率の逆で良品率)が5%しかなく、不良品率は95%もありました。しかも、契約当時のトランジスタは低周波数でしか使えないため使用用途も狭く、WE社の技術者より「日本では、補聴器を作ったらいい」と提案されます。しかし、井深大さんは、常に大衆に目を向けていたため、次のように決断しました。

  • ラジオをやろう。トランジスタを作るなら、広く誰もが買える大衆製品を狙わないと意味がない。それはラジオだ。それに、歩留まりが悪いから面白い。歩留まりが悪いというなら、良くすればいい。

当時あったラジオといえば、真空管式のみで、戦前の据え置き型のラジオともなれば、小型の仏壇くらいの大きさがありました。その後、戦後に、進駐軍が乾電池で動く真空管式のポータブルラジオを日本に持ち込み、それを契機に日本でもラジオの小型化も進みましたが、やはり真空管式なので、小さくするのには限界がありました。

そのため、井深大さんは、真の小型ラジオは、トランジスタラジオをおいて他にはありえないと考えていました。しかし、肝心のトランジスタが高価であったため、トランジスタのラジオは、お金に糸目をつけないアメリカの国防用のものしかないのが現状だったわけです。そして、もしトランジスタラジオの開発に成功すれば、大衆に受けいられる可能性は十分にありました。

一方、まだラジオ用の高周波数のトランジスタが作れない時代であったにも関わらず、高周波数のトランジスタの開発から行い、さらにそれを用いてラジオを作るというのは、無茶な挑戦でもありました。しかも、東京通信工業は、設立から6年しか経っておらず、資本金も1億円(現在で6億2,400万円)に満たなかったため、トランジスタの開発のための工場の整備から行い、さらにいつまで続くか分からない研究に費用を投じるというのは、会社規模から考えても、無謀な賭けでした。そのため、トランジスタの開発は、社運を賭ける事業として、お金と人手をかけて始まったのでした。

トランジスタの開発については、ほとんど情報もない状態から始まり、1954年にトランジスタ工場の視察のみから製作工程を類推したり、手探りでトランジスタ製造用の工作機械を自作したりして、進められました。また、1954年5月には、今まであった東京品川の工場に加え、新たに、共同研究を行っていた東北大学の近くである仙台にトランジスタのための新工場の開設も行いました。そして1954年6月、ようやくトランジスタラジオを試作を開始し、1954年10月には東京通信工業製のトランジスタの量産に成功して、トランジスタの販売を開始しました。その後も、トランジスタラジオの開発は進めめられ、世界初のトランジスタラジオの販売を目指していましたが、1954年12月に、アメリカのリージェンシー社がトランジスタラジオを発売してしまい、世界初の座は逸してしまいます。

しかし、東京通信工業でも、1955年1月、ようやくラジオから音が鳴るようになり、海外での販売も考慮して、1955年3月より「SONY」の名称を使うようになりました。そして、いよいよ販売かという矢先、トランジスタラジオ1号機である「TR-52」はプラスチックが浮いてしまうトラブルが起こったため発売前に販売中止となってしまいます。

そのため、さらにデザインの変更を行い、1955年9月、ついに、自社開発のトランジスタを用いた、日本初のトランジスタラジオ「TR-55」が販売されました。さらに1956年の暮れには、学校用の「TR-81」も製造されました。そして、1956-1957年、トランジスタの製造に本腰をいれるべく、女工さんとした「トランジスタ娘」を大々的に募集し、トランジスタの量産体制を確立していきました。

1957年3月には、悲願だった家庭用のトランジスタラジオ「TR-63」が販売されました。TR-63は、当時世界で一番小さいポケッタブルラジオで、112x71x32mmと小さく、価格は当時のサラリーマンの1ヶ月分の平均給与に相当する1万3,800円(現在の価値で79,200円)にまで抑えられました。TR-63は、特にアメリカで好評を博し、1957年9月にアメリカ最大手の電気機器販売会社でオーディオ界の大立物であったアグロッド社と契約を結べたことで流通網も整えられ、大ヒットを記録しました。さらに1958年には斬新なデザインと性能の「TR-610」が販売されて欧米で人気となり、1960年までの2年間で世界で50万台を売り、ソニーの名前を世に知らしめました。そして、1960年にはトランジスタの生産量は月産100万個にものぼり、新たに1960年11月1日には生産工場として神奈川県に厚木工場を建設し、1961年には研究施設が横浜市の保土ヶ谷に建設されました。

「第3の商品:トランジスタテレビ」は、ラジオに変わる最先端の分野として挑戦されました。トランジスタテレビは、トランジスタラジオと違って、高性能のトランジスタの求められる、ハードルの高い商品でした。テレビ用のトランジスタは、ラジオ用トランジスタの周波数の100倍、電流で20倍の性能が必要とされ、さらに今までの10倍の電圧への耐圧も必要とされました。さらにテレビの場合は電力の消費も激しいため、耐熱特性に優れたトランジスタが必要であり、80度で壊れてしまう従来のゲルマニウム製のトランジスタの使用は困難で、耐熱性に優れるシリコン製のトランジスタの必要でした。

そんな状況の中、井深大さんも、トランジスタ型ラジオTR-63型が軌道にのってきた1957年頃よりシリコン製のトランジスタに注目するようになり、「これからは、シリコントランジスタの時代だな」と、しきりに語るようになっていました。これは、より高性能のシリコントランジスタを用い、トランジスタテレビの開発を視野に入れていることを意味していました。

そしてついに、「今まではラジオの時代だったが、これからはテレビだ」という声の元、ポータブルテレビに取り組むようになり、1958年の1月より、シリコントランジスタの開発がはじまりました。しかし、シリコントランジスタの製作の難易度は、ゲルマニウムトランジスタの比ではなく、困難を極めました。一方、1959年11月、ゲルマニウムトランジスタの方も、テレビに使える高周波のものが開発されました。

そして、1959年末に、シリコンとゲルマニウムを含むトランジスタを用いた、家庭用の8インチのポータブルテレビ「TV8-301」が発表され、1960年5月に価格6万9,800円(38万3,000円)で発売開始となりました。しかし、時代的に、まだ据え置き型のテレビが十分に普及していない時代だったため、「まずは据え置き型を買うのが先だ」と考えられ、世間の評判とは裏腹に売れ行きは不調でした。また、TV8-301は壊れやすいという欠点もあり、発売後2年くらいたった頃でも、販売台数より返品の方が多いこともあり、トランジスタテレビの損失を、トランジスタラジオの利益で賄っているような状況でした。

そのため、さらに、5インチのマイクロテレビ「TV5-303」の開発プロジェクトが進められました。より小型で能率の良いトランジスタの開発を目指していたちょうどその頃、アメリカのベル研究所で、エピタキシャル法という新しいタイプのシリコントランジスタが開発されました。そして、その新しい方法を取り入れることで、エピタキシャル法メサ形(形状が、平らな頂の山のようになっている)のシリコントランジスタの開発に成功しました。しかし、エピタキシャルメサ形トランジスタの開発は、今までよりもさらに1桁も2桁も難しい製造技術が必要とされていたため、生産ラインの準備が完了したのは1961年になってからでした。さらに今回のトランジスタテレビは、移動して使うことも考慮して、車内での温度と振動によるテストも繰り返されました。

そしてついに、1962年4月に「TV5-303」が販売開始され、井深大さんが名付け親となって「マイクロテレビ」という名称に決まりました。マイクロテレビは、アメリカでも販売されて大ブームを巻き起こし、テープレコーダー、トランジスタラジオに続いて、ソニーの主力商品がまた一つ誕生したのでした。

「第4の商品:VTR」とは、画(え)が記録・再生できる「VTR」という機械がアメリカで販売されていたため、それをもっと小型化して売ることへの挑戦でした。1957年にアメリカのアンペックス社が真空管式のVTR実用機を販売し、破格の高値で3,000万円(現在で1億7,300万円)ではあったものの、1958年5月にはNHKや民放各社が導入し始めました。そのため、井深大の号令により、ソニー(東京通信工業の後身)でもVTRの開発を行うこととなりました。

当時のアンペックスのVTRは、タンス2さお分程度もあったため、井深大さんは、もっと小型軽量できないものか、とも考えていました。しかし、画を録音しようと思うと、音声の録音の高周波限界の数百倍以上の周波数を録音できなければならず、さらに機械制動も従来より1桁も2桁も高くしなければならないため、数多くの技術的困難がありました。それでも、1958年10月には、なんとかソニーでも試作機で画を出せるようになり、国産初のVTRとして名乗りを上げました。しかし、この試作機は、テレビの信号を記録・再生できたものの、まだまだノイズもひどく、安定性も全くありませんでした。その後も開発を続けられ、1959年11月には少しずつ、小型化の目処がたち、1960年にはソニーとアンペックス社による技術提携が行われました。しかし、アンペックス方式のヘッド部分は4ヘッドと大掛かりで、維持費が高くつく構造だったため、ソニー独自の2ヘッドの開発も勧められました。

そしてついに、1961年に、トランジスタ式としては世界で初めてとなる、トランジスタ式VTRとしては「SV-201型」が出来上がりましたが、重さはまだ200kgありました。そしてさらに改良を進めて小型化し、1962年9月、今までの50分の1という容積で茶箪笥くらいの大きさになり、重さも60kgにまで軽くなった、業務用VTR「PV-100型」が発表され、1963年7月より248万円(現在で1,127万円)で販売されました。用途は業務用のため、病院や学校、さらに飛行機内で8ミリフィルムの代わりに配信する娯楽用として販売されました。PV-100は業務用にとどまったものの、今までは放送局でしか使われていなかったVTR機器が、家庭用へと一歩近づきました。

しかし、井深大さんは「1台60kgで、何百万もする機械は主義に合わない」と考え、「PV-100型」には満足しておらず、家庭で使える大きさと価格に固執しました。そしてついに、1964年10月、家庭用「CV-2000型」が発表されました。重さはわずか15kgで、価格はこれまでの放送局用で2,000万円、工業用でも250万円だったが、一挙に19万8,000円(現在で86万5,000円)にまで低価格化が進みました。井深大さんは「今回の製品は、人の真似でなくソニーで生まれ、育ち、成長したものです。生活に革命を生む製品というのが、ソニーの特徴であり、喜びであり、価値です」と述べました。

「第5の商品:カラーテレビ」とは、当時、欠点の多かったカラーテレビへの挑戦です。当時の家庭用カラーテレビは、「シャドーマスク」という技術を用いていましたが、白黒ブラウン管よりも暗く、価格も高く、調整が難しく、さらに故障が多いという、欠点だらけの代物で、ほとんど普及していませんでした。

そんな中、1961年3月、シャドーマスク方式よりも6倍も明るいクロマトロンという技術を使ったテレビを目の当たりにし、家庭用カラーテレビの製作に乗り出すこととなりました。しかし、クロマトロンは、軍事用という特殊な用途でしか作られておらず、技術が難しいという問題がありました。それでも、苦労の末、1964年に、ソニーはクロマトロンの技術を完成させ、ショールームで一般公開されました。しかしクロマトロンを実用化させるとなると、発明者であるローレンス博士の文献にも書かれていなかった難問が次々と発見され、故障も多い代物でした。さらに一番の問題が、クロマトロン用の蛍光体の製作には時間がかかりすぎ、製造コストも高くなるため、量産化できないということでした。

すでにこの時点で、クロマトロンに5年間の歳月を費やしており、研究費もどんどんかさんでいました。そのため、これ以上開発費をつぎ込むと、ソニーはクロマトロンと心中になりかねない状態でした。しかし、社長である井深大さんが「自分自身が開発リーダーとして、最初から最後まで立ち会おう」と身を呈し、責任を取る覚悟で開発が続行されました。開発陣も、クロマトロンに関わった苦労を無にするような終わり方はしたくないと、ダメ元で新しい手法を実験したみたところ、ついに、思いもかけられない好結果を得ることができました。そして、クロマトロンと似た技術である「アパチャーグリル」という方式の開発にも成功。クロマトロンともシャドーマスクとも異なる新しい技術「アパチャーグリル」を用いて、カラーテレビの開発が行われました。そして、1968年4月、新しいカラーテレビ「トリニトロン」の発表が行われ、1968年10月に発売開始となりました。

井深大さんは、常に、生活に革命を生む商品を作るために新しい分野に挑戦し続け、経営者となってからも、その経営方針を徹底し続けました。その結果、日本で高い評価を受け、1958年12月1日には東証1部に上場して、国内より資本を集めることにも成功しました。さらに、共同創業者で国際派マネジャーの盛田昭夫さんの尽力により、海外でもシェアも伸ばし、1961年には日本の株式会社で初めてADR(アメリカ預託証書)を発行し、海外からの本格的な資本調達の先駆けとなりました。さらに1970年には、日本企業としてはじめて、ニューヨーク証券取引所に上場し、国際企業としても名を馳せていきます。

しかし一方で、井深大さんは、生活と直接関係のない電子機器には、一切、無関心でした。例えば、海外ではトランジスタの開発が進むにつれ、研究者や技術者の中では、大型化、高速化された、大型コンピューターの研究が活発となっていきました。そのため、ソニーの社内にも、デジタルの仕事を行いたいと考えていた技術者もいました。しかし井深大さんは「大型のコンピューターの開発は、絶対に承知しない。うちは一般消費者相手のものをやろうとしているんだから」と一蹴します。常に、人の生活の役に立つことを目指し、新しいことに挑戦するという哲学が、井深大さんの経営方針になっていたことが窺われます。

井深大とは:まとめと、ソニースピリット

井深大とは、ソニーの発展に貢献した、ソニーの創業者です。ソニーが日本で最初に開発に成功したトランジスタは、その後、集積度を高めてICやLSIへと進化していき、電子機器にはなくてはならない部品へと進化していきますが、そのトランジスタにいち早く目を付けた井深大さんの先見性は、ソニーの発展を大きく支えたといえるでしょう。

もちろん、ソニーが躍進したのは、井深大さんの眼力だけでなく、それを助ける盛田昭夫さんの行動力も大きく寄与しています。盛田昭夫さんは、日本でテープレコーダーがヒットしていた1950年台から、すでに、日本と海外の売上の比率は50:50になるべきだと考えていました。そして、1960年2月15日には、50万ドルの資本金(当時で約1億8,000万円、現在の価値で9億9,800万円)を支払い、アメリカでソニー独自の販売網を整備するため、ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカを設立しました。そして盛田昭夫さんは、ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカの陣頭指揮を取るため、1963年に、家族で渡米して駐在したこともありました。

また、ソニーの発展は、井深大さんや盛田昭夫さんだけでなく、その他にも、仕事を道楽にしてしまうような技術陣、さらに、信頼してついていった社員といった、会社全体のチームワークによっても支えられてきました。井深大さんや盛田昭夫さんは、会社のスタッフを、ホワイトカラーやブルーカラーのように分けず、みんな同じ仲間であると考えていたため、スタッフを「Aさん」、「Bくん」と親しく氏名で呼んでいました。

しかしはやり、井深大さんがソニーに対して与えた影響力は大きく、「自由闊達として愉快なる理想工場の建設」を本懐としていた思想は、ソニーに深く浸透していました。ソニーは、家電会社でありながら、テレビやオーディオのようなデジタル家電にのみ注力し、パナソニック(松下電器)のように冷蔵庫や洗濯機といった白物家電の開発はしてこなかったのも、「愉快にやろう」という考えに依っていたからかもしれません。そして、ソニーは、常に新しいことに挑戦して、大衆の役に立つ商品を提供し、全てのものを小型化していきました。この井深大さんの創造性とチャレンジ精神は、ソニーらしさとして周囲から受け止められ、「ソニースピリット」とも呼ばれいます。

ソニーに対しては、もちろん、批判的な意見もあります。例えば、1958年頃、評論家の大宅壮一は「ソニーはモルモットだ」と述べ、「ソニーはトランジスタの分野でトップメーカーだったが、今では東芝がソニーの2倍近くのトランジスタを生産している。ソニーは東芝のモルモット的な役割だ」と評しました。

しかし井深大さんは、この「ソニー・モルモット論」や「ソニーは東芝のモルモット」という批評について、次のように答えています。

  • 電子工業は、常に変化していくものを追いかけていくのが当然だ。決まった仕事を、決まったようにやるのは時代遅れだ。ソニーは先頭となってトランジスタに取り組み、モルモット精神で、消費者に対して種々の商品をこしらえ、その結果、たくさんの日本の製造業者がラジオの製造に乗り出し、世界の市場で圧倒的な強さを示すようになった。モルモット精神も、良きかな。

井深大さんは、「ソニーが挑戦することで、結果的に日本の電子産業が発展し、消費者の生活がよくなれば、それでよいではないではないか」と考えていました。

一方、革新的なモノづくりを目指していたソニースピリッツは、5代目社長の大賀典雄で終わりました。そして、1995年に6代目社長として出井伸之さんが就任して以降は、欧米流の複合企業化を目指し、モノづくりから一歩引く形となったため、多くのソニーの優秀な技術者が引き抜かれていき、2003年4月にはソニーの株価の大暴落である「ソニーショック」も起こっています。

2005年から2009年までは、技術職出身の社長として、中鉢良治が8代目社長につきましたが、その後の歴代社長も、モノづくりよりは、IT事業やエンタメ事業、ソフトの開発へと重点を変えていき、既存事業の切り離しやリストラを行いながら、新しいソニーの体制を整えています。また、2018年よりは、管理畑出身の社長として、吉田憲一郎さんが11代目社長に就任し、かつての「創造的なソニー」とは異なる様相を呈してきました。

そのため、過去のソニーを知っている人からすると、現在のソニーからは、井深大さんの面影を窺うことはできないため、「普通の会社」になったと批評されることもあります。しかし、ソニーは現在では、グループ企業の様相を呈しており、次のような有名企業を多く抱えるソニーグループとなっています。

  • ソニー・ミュージックエンタテインメント:1968年に設立
  • ソニー生命保険:1979年設立、ソニーフィナンシャルホールディングスの子会社
  • ソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント:1989年に買収
  • ソニー・インタラクティブエンタテインメント:1993年設立、PlayStation等ゲーム系
  • ソニーネットワークコミュニケーションズ:1995年に設立、昔のSo-net
  • ソニー損害保険:1998年設立、ソニーフィナンシャルホールディングスの子会社
  • ソニー銀行:2001年設立、ソニーフィナンシャルホールディングスの子会社
  • ソニー不動産:2014年設立
  • ソニー・ライフケア:2014年設立、ソニーフィナンシャルホールディングスの子会社

そのため、井深大さんのソニースピリットは、今のソニーグループの中で垣間見るのは困難かもしれません。しかし、井深大さんの、黎明期の電子工業を支えた過去の業績からは、新しいことに挑戦して、人の役に立とうとすることが、多くの成果をもたらすかというのを、学べるかもしれません。

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