カーネルサンダースの性格

カーネルサンダースの性格:正義感が強く頑固で、疎んじられる

カーネルサンダースは、本名は「ハーランド・サンダース」といい、ケンタッキーフライドチキンの創業者です。「カーネル」という名前は、彼の功績をたたえてケンタッキー州から送られたものです。

カーネルサンダースは、大器晩成の経営者として語られることもありますが、その性格は、正義感が強く頑固で、疎んじられる人物でした。

カーネルサンダースは、1890年、アメリカの中部で五大湖の南側に位置するインディアナ州の、南部にあるヘンリービルという町で、3人兄弟の長男として生まれました。カーネルサンダースは幼くして父を亡くし、女手ひとつの貧しい家庭で育てられ、わずか6歳にして台所に立って、弟や妹に料理をつくって家庭を支えました。このとき、しつけに厳しかった母親は、幼いカーネルサンダースに、次のような口癖をよく繰り返していました。

  • いつでも、本当のことを言いなさい。ごまかしはだめ。そして、誰にでも親切にすること。

この教えは、工場でトマトの皮むきをしながらも、カーネルサンダースを含め3人の子どもを育ててくれた母親の教訓として、生涯、カーネルサンダースの心に残り続けることとなります。

しかし、その後、カーネルサンダースは、母親の再婚相手とうまくいかず、家出を決意します。入学したばかりの中学校も辞め、衣服の入ったスーツケース一つを抱え、社会へと飛び出していきました。

カーネルサンダースの最終学歴は小卒で、いくつもの職業を転々としました。農場、鉄道会社、弁護士、保険外交員、秘書、ランプの製造販売、タイヤのセールスマンなどなど、「転職王」といっても過言ではないほどの職歴を経ました。

鉄道会社だけでも4社に勤めましたが、いつでも全力で働いて結果を残しはするものの、あまりに正義感が強く頑固だったため、社会からはみ出してしまいました。例えば、ある鉄道会社では、順調に出世していたにも関わらず、組合の苦情処理として、病気や怪我をした従業員に親身になりすぎて、会社から難癖をつけられて解雇されました。

また、別の鉄道会社では、労働組合のことで機関士と議論になり、取っ組み合いになって、がっちりした体格のカーネルサンダースが相手を組み伏せている場面を運悪く上司に見られ、クビになりました。

さらに別の鉄道会社では、大事故を起こしたにも関わらず、ろくに被害者に賠償をしない他社に怒りを覚えて、負傷者たちの署名を集めて抗議し、多額の賠償金を引き出すことに成功しました。そのため、被害者たちには大いに感謝されましたが、会社から解雇された上、鉄道界の敵として干されてしまいます。

当時は資格のいらなかった弁護士をしたときも、依頼人から殴りつけられ、反撃を試みてクビに。さらに、セールスマンになっても、営業成績は申し分ありませんでしたが、いつも会社と対立してしまい、どうしても仕事は長続きしませんでした。

カーネルは、物事に妥協できず、いい加減に済ませることのできない性格でした。そのため、いつも正しいことをしているにも関わらず、それゆえに煙たがられ、経営陣と衝突せざるを得なかったわけです。

カーネルサンダースの性格:仕事への姿勢を学ぶ

カーネルサンダースは、社会経験を積む中で、その後の性格や仕事を決定づける姿勢を学んでいます。

カーネルサンダースは、いつかの仕事を経る中で、「オールド・アスマ号」というフェリーの経営に参加して、そのときに、同時に、ロータリークラブにも加入しました。ロータリークラブというのは、日本ではあまり馴染みのない団体ですが、国際的な社会奉仕連合団体「国際ロータリー」のクラブで、そのクラブのモットーとする、次の2つの点を、カーネルサンダースは非常に気に入りました。

  • 他の人に最高のサービスをする人が、もっとも利益を得る人だ
  • 自分の利益のことを考える前に、まず貢献することだ

このモットーを、カーネルサンダースは非常に気に入り、その気に入りようは、生涯、ロータリークラブを辞めなかったほどでした。そして、この思想が、今後のカーネルサンダースの仕事に活かされていくことになります。

また、ロータリークラブには、ビジネスを始めるにあたっての「4段階テスト」というものがあり、経営者は、次の4つの項目すべてをクリアしなければならないとされていました。

  1. そのビジネスに嘘偽りはないか
  2. そのビジネスは関係するすべての人に公平なものか
  3. そのビジネスは良好な人間関係を作っていくものか
  4. そのビジネスは関係あるすべての人にとって有益なものか

カーネルサンダースは、ケンタッキーフランドチキンの事業を始めるときも、このテストをしたと言われています。

カーネルサンダースの性格:他人には使われない仕事をする

カーネルサンダースは、他人に使われない仕事をしようと考える性格の人物でした。

カーネルサンダースは、30歳を目前に控えたとき、ようやく「今までは、他人に使われる仕事ばかりをしていた」と考えるようになり、ガソリンスタンドの経営に乗り出しました。

カーネルサンダースがやろうとしたガソリンスタンド経営は、石油の代理店から薦められたものでした。そして、ガソリンスタンを開業した場所は、故郷であるインディアナ州の南側に隣接する、内陸部の州であるケンタッキー州の、北西部の町ニコラスビルでした。

カーネルサンダースのガソリンスタンドは、順調でしたが、1929年10月24日、世界大恐慌が襲いかかります。カーネルサンダースのガソリンスタンドがあるニコラスビル周辺は、特に貧しい地域だったこともあり、世界大恐慌の影響は多大でした。

そのため、旅行者は激減し、ガソリンスタンドの売上もガタ落ちとなりました。さらに、それに加えて、干ばつも発生。カーネルサンダースは、農家の人たちにツケ払いでガソリンを入れていましたが、その代金も回収できなくなってしまいました。その結果、カーネルサンダースは、家財道具も売りに出しましたが、それでもガソリンスタンドの家賃を払うことができず、40歳を手前にして、店を手放します。

しかし、今度は同じ内陸部のケンタッキー州のコービンに場所を移して、再びガソリンスタンドを経営をはじめました。今度のガソリンスタンドは、田舎町でしたが、各州への国道の分岐点であり、複数の道を束ねる地点であるという、そのロケーションに目をつけたわけです。そして、その地の利を活かして、再びガソリンスタンドで復活を遂げました。

カーネルサンダースの性格:他人を喜ばせる事業に賭ける

カーネルサンダースは、他人を喜ばせる事業に賭ける性格の人物でした。

カーネルサンダースは、コービンでガソリンスタンドを初めてまもなく、お腹を空かせているドライバーが多いことに気づきました。そのため、ガソリンスタンドの隅にあった5メートル四方にも満たない小屋を食堂にして、40歳にして初めて飲食業に着手して、フライドチキンやハム、豆、ビスケットの提供を始めます。「サンダース・カフェ」と名付けられた飲食店は、テーブル1つと、椅子6脚しかなく、お客さん同士のヒジがぶつかるほど窮屈でしたが、料理は好評で、ガソリンの売上とともに順調に利益を上げていきました。そして、そのうち、食事を目当てにガソリンスタンドにくる客も現れ始めましたため、このチャンスに、全財産をつぎ込んで勝負に出ました。

まず、カーネルサンダースは、これまでカーブの内側に位置していたガソリンスタンドを、道の反対側に移して、国道を走るドライバーの目に留まりやすくしました。そして、同時に、本格的なレストランも開店しました。この賭けが大成功して、カーネルサンダースのレストランはたちまちのうちに好評を博し、ケンタッキー州のレストランガイドに掲載されるまでになり、「サンダース・カフェに寄らずに旅は終われない」とまで言われて、カーネルサンダースのレストランを旅の目的地にする人まで現れるほどででした。そのため、カーネルサンダースは、ガソリンスタンドを売り払い、レストランに専念することにしました。

この躍進で、地元の名士にまで上り詰めたカーネルサンダースは、45歳時の1935年、ケンタッキー州知事から「カーネル」の名誉称号を与えられ、「ハーランド・サンダース」から「カーネル・ハーランド・サンダース」となりました。カーネルサンダースは、レストランを成功させた後、モーテルの経営にも着手しています。

49歳のときに、経営していた建物が火事になってしまい、全焼してしまう不運にも見舞われますが、この事故を機に、再び、レストラン経営一本に絞って、再起を果たしました。

カーネルサンダースの性格:裸一貫でもなんとかできないかと考える

カーネルサンダースは、さらに失敗を繰り返しますが、裸一貫でもなんとかできなかと考える、不屈の精神を持った性格の人物でした。

カーネルサンダースが65歳のとき、コービンの町は、ハイウェイ建設により、通過ポイントとして訪れる人が減ってしまったため、廃れてしまいました。客の大半が旅行客だったこともあり、カーネルのレストランも閑古鳥が鳴くようになり、65歳にして、カーネルサンダースは、三たび店を手放すことになってしまいます。

このとき、カーネルサンダースは引退も考えましたが、ソーシャルセキュリティー(アメリカの公的年金)が想像以上に少なかったため、カーネルサンダースと妻は愕然とし、どうにかできないかと思いあぐねます。

そして、裸一貫となったカーネルが思いついたのが、レストラン経営の中で最も自信のあったフライドチキンのレシピをレストランに教え、チキンが売れるたびに、売上の一部をロイヤリティとして受け取るという、フランチャイズ契約でした。

しかし、老人が一人、突然レストランを訪ねてそのような提案をしても、話さえまともに聞いてもらえず、門前払いが繰り返されました。そして、冷たく追い返される日々も続きましたが、カーネルサンダースは様々な営業方法を学習し、徐々に話を聞いてもらえるようになりました。

こうして、カーネルサンダースは、1,000軒以上に営業をかけ、血のにじむような努力が実を結び、ようやく1010件目で契約を取ることに成功。その後、1970年代前半には、1日平均2軒のペースでフランチャイズ店は増え、5,000軒を数えるまでになりました。

その後、1980年6月に急性白血病を発症し、同年12月12日に90歳で死去しました。カーネルサンダースは、死ぬまで働くことをやめなかったことを象徴するかのように、いつも着ていた白いスーツで棺に納まりました。

カーネルサンダースの挑戦から40年経った1996年には、ケンタッキーフライドチキンは、世界80カ国に1万軒近くを構える世界的企業へと成長しています。

カーネルサンダースの性格:まとめ

カーネルサンダースというと、65歳からケンタッキーフライドチキンを始めて成功した人物として取り上げられることが多く、「何歳になっても挑戦できる!」という、高齢起業のシンボルとして取り沙汰されることの多い経営者です。

しかし、その実態は、数々の挫折と、その経験を糧にした学習の連続で、成功を成し遂げた人物であると言えます。そのため、今まで、雇用されてきたサラリーマンが、定年後に事業を始めるのとは、経験値に雲泥の差があると言えるでしょう。

カーネルサンダースは、小卒~30歳前まで、15年以上の社会経験を積んで失敗を繰り返し、ようやく、自分は人に雇われても大成しないことを学んでいます。その後は、成功を収めるものの、ガソリンスタンドの失敗、レストランとモーテルの焼失、そしてレストランの失敗を繰り返してきました。しかし、それらの経験を糧に、最終的に、ケンタッキーフライドチキンで安定した成功を収めるに至った、不屈の性格の持ち主であったと言えます。

また、カーネルサンダースは、ずっと飲食業に携わっていたわけでも、料理が好きだったわけでもありませんでした。しかし、常にお客さんに喜んでもらおうと思った結果、最終的に行きついたのが、レストランであり、フライドチキンでした。そう考えると、カーネルサンダースのケンタッキーフライドチキンとは、カーネルサンダースの性格が作り出した、おもてなしの心の結晶と言えるかもしれません。

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