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安藤百福のドラマ:台湾生まれの台湾育ち
安藤百福は、1910年(明治43年)、ハレー彗星で世界中が大騒ぎしていた頃に、日本に併合されていた台湾の地で誕生しました。そのため、元々は台湾生まれの台湾人で、本名は「呉百福」と言います。4人兄妹の三男で、上に2人の兄と、下に1人の妹がいました。
安藤百福さんの両親は、幼いときに他界してしまったため、安藤百福さんは、兄弟とともに、繊維の製造・販売業を営む、商売人で厳しい祖父のもとに引き取られ、育てられました。
特に、安藤百福さんは、家業を継げない三男だったこともあり、祖父より特に厳しくしつけられ、小さい頃から家中の家事をこなし、小学校高学年ともなれば、自分の食事や洗濯だけでなく、妹の面倒も見ていました。
そんな生活の中、安藤百福さんは祖父に「この家を出て、妹と2人で暮らしたいんです」と申し出て、妹と暮らし始めるようになります。安藤百福さんは、日が昇らぬうちに起きて朝食と弁当を作り、妹を送り出してから、食事の後片付けをすませて自身が学校に向かうという日々を過ごしました。その結果、料理の腕もあがり、生きいてるニワトリをさばいて調理できるまでになり、自分で材料を選別したり、味に工夫を加えたりすることにも熱中しました。
また、安藤百福さんは、祖父の家にいた頃、家事の合間を見ては織物工場へ行き、職人の仕事ぶりをじっと観察するのを習慣にしていました。そうしているうちに、織物の素材が、綿・糸・絹のどれなのか、また、糸の太さはどのサイズなのかなどを、ひと目で見抜けるほどの眼力を身に付けました。
以上のように、安藤百福さんのドラマは、幼少期は、実業家の祖父の元、台湾で生活してました。
安藤百福のドラマ:20代の成功者
安藤百福さんは、学校を卒業すると、級友の紹介で、図書館の司書に就職しました。そして、職場で、政治、経済、社会などあらゆる分野の知識を本から吸収しましたが、最終的には、独立して起業することを目的にしていました。そして、将来のためにと図書館で新聞や雑誌に目を通している中、安藤百福さんは、「メリヤス」という商品に目をつけました。
メリヤスとは、「靴下」を意味するポルトガル語を起源にしている織物のことで、手袋・靴下・肌着などに用いられる、柔らかくて伸縮性を持つ生地でした。安藤百福さんは、独立の夢を果たすべく、22歳のとき、「メリヤスの会社をやりたいのです」と親戚を説き伏せ、父親の遺産を元に、資本金19万円(現在の貨幣価値で約4億円)で「東洋莫大小(東洋メリヤス)」を設立し、台湾最大の都市である台北で新事業をスタートしました。
安藤百福さんは、人生で初めての起業でしたが、司書時代の徹底的なリサーチが勝因となり、メリヤスは飛ぶように売れ、仕入れが追いつかないほど繁盛しました。順調に業績は伸び、さらに台湾から大阪へ進出し、唐物町に「日東商会」というメリヤスの問屋を開業。メリヤスのメーカーを直接訪れ、生産の現場にいる経営者と商談を重ねていきました。
安藤百福さんは、台湾で好スタートを切り、続いて大阪でも成功を納めましたが、それでも満足することなく、さらなる飛躍のためには、大手メーカーと組むことが一番重要だと考え、「丸松」というメリヤスの最大手に飛び込み営業をかけました。
しかし、いくら順調に拡張しているとはいえ、大手メーカーからすれば、安藤百福さんの問屋は小さい会社に過ぎず、20代の若社長である安藤百福さんの話も、ろくに聞いてもらえないまま門前払いを食らってしまいます。しかし、安藤百福さんはそれでもめげず、何度も丸松の工場長の元へ足を運びます。そして、なんとか工場長と親密な関係になることに成功し、その後、丸松とのつながりも持つことに成功した安藤百福さんは、メリヤスの取り扱いをさらに拡大させました。さらに、蚕糸事業を、大手繊維業者や三井物産と共に開始するなど、新機軸も打ち立て、何もかも順調に進んでいました。
以上のように、安藤百福さんのドラマは、戦前の20代は、成功者として進んでいました。
安藤百福のドラマ:食品産業への参入
安藤百福さんは、順風満帆な道を歩んでいましたが、日中戦争が起き、さらにそれに続いて第二次世界大戦も勃発すると、繊維事業への統制が行われ、今までの事業が立ち行かなくなりました。しかし、兵庫に疎開した後も、商売への熱意を失わず、バラック住宅の販売や、精密機械関係、航空関係など、数え切れないほどの事業に携わりました。
そして終戦後、安藤百福さんは大阪に戻りましたが、かつてあったはずの事務所や工場はすべて焼き尽くされていました。そんな絶望的な風景の中で、安藤百福さんの目を引いたのは、食を求めるたくさんの人で賑わっているヤミ市でした。そして、さらに一際目を引いたのが、ラーメンの屋台の前で寒さに震えながら行列を作る人々の姿であり、「一杯のラーメンのために、人々はこんなにも努力するのなのか」と関心を示しました。
その後、保険金として数千万円(現在の貨幣価値で数億円)を手にした安藤百福さんは、1948年(昭和23年)に「中校総社」という会社を設立し、翌1949年(昭和29年)には「サンシー殖産」ヘと社名を変更しながら、食品産業へと乗り出すことに決めました。しかし、当時は配給制でろくに食料もなかったため、食品の提供よりも、栄養失調で亡くなる人をまずは減らさなければならないと考え、安藤百福さんは、専門家の手を借りて「国民栄養科学研究所」を設立し、栄養剤の開発に取り組みました。そして、栄養剤の原料について思案しているとき、庭で鳴く買えるの声を聞いて、フランス料理にもよく使われるカエルなら栄養剤の原料になるのではないか、とひらめきました。
そして、自宅の日本間を実験場にして、安藤百福さんは、大きな食用カエルを何匹も捕獲してきては、それを圧力釜でグツグツと煮込み、食用ガエルを煮詰める実験を繰り返す日々を送りました。そんなある日、突然、圧力釜が大爆発を起こし、部屋中にカエル汁が撒き散らされて四方の壁がベトベトになり、妻からも「次からは台所にしてください」と懇願されてしまいます。結局、安藤百福さんの実験は何度繰り返してもうまくいかず、食用ガエルを使うのは諦め、「牛や豚の骨からエキスを取り出せばいい」という結論にたどり着きました。
そして、試行錯誤を経てようやく完成したがの、たんぱく質栄養剤「ビセイクル」で、厚生省にも品質が認められ、厚生省が管理する病院でも使用されました。
以上のように、安藤百福さんのドラマは、戦後は、食品産業で再出発が行われました。
安藤百福のドラマ:成功からの転落
安藤百福さんは、戦後、栄養剤の開発だけでなく、製塩や干物作りといった事業にも取り組み、食糧不足で飢えに苦しむ人々に貢献しました。製塩では、大阪の泉大津に鉄板を並べて海水を流すという、画期的なアイデアも披露しています。
さらに、職不足で空腹のため犯罪に走る若者のために、日給5,000円(現在の貨幣価値で3~4万円程度)という高い給与で積極的に若者を雇用し、若者に技術を学ばせるために「中華交通技術専門学院」の設立も行いました。
以上のような社会貢献を念頭に事業を行っていたおかげで、自ずと成功もついてまわるようになり、会社も拡大して若い従業員もどんどん増え、安藤百福さんの家には、多くの青年たちが寝泊まりし、誕生日を祝ったり、恋愛相談に花を咲かせたりしながら、彼らと公私をともにしました。安藤百福さんが愛車で自宅に帰ると、青年隊が音楽を演奏して迎えるほど慕われていました。
そんな中、安藤百福さんの元に、専務理事を名乗る男が訪れ、「華僑向けの信用組合を作るのだが、理事長を引き受けてもらえないだろうか」という依頼をされます。安藤百福さんは、金融業の実績も、関心もなかったため固辞しましたが、熱心に説得され、引き受けることにしました。一度引き受けたからには、中途半端はいかんと、安藤百福さんは信用組合の社員とともに会社や商店を練り歩き、華僑の大阪華僑連合総会の顧問を務めたこともあった百福効果もあって、預金をどんどんかき集め、1日で5,000万円集まることもありました。
しかし、安藤百福さんは、預金集めに力を貸しながらも、それがどう使われていたかは全く知らされておらず、安藤百福さんが47歳頃の1957年(昭和32年)に、信用組合は資金繰りに失敗して、倒産してしまいます。専務理事もいつの間にか姿を消し、理事長である安藤百福さんがすべての責任を背負わされることとなりました。その結果、成功者から一転、家以外の財産をほとんど失い、安藤百福さんを慕って集まってきていた若者たちも、潮が引くようにいなくなりました。そして、安藤百福さんは、事業の第一線から退き、自宅にこもる生活が続きました。
以上のように、安藤百福さんのドラマは、40歳代なかばにして、成功者から一転、転落の人生を歩みます。
安藤百福のドラマ:チキンラーメンの開発
安藤百福さんは、しばらく自宅にこもっていましたが、再び新しい事業「ラーメン」を行おうと、家の裏の小屋に作業場を作り、研究を開始しました。安藤百福さんの頭には、戦後、ラーメンを食べるのに必死になって、行列を作る人々の顔がこびりついていました。さらに、アメリカから援助物資として小麦粉が大量に届けられていた当時、厚生省はパン食を勧めていましたが、安藤百福さんは、おかずもいろいろ入れられる麺類の方が、栄養面でも優れていると考えていました。そのため、栄養剤を開発していたときも、「次はラーメンを作ろう」と持ちかけていましたが、「ラーメンはどう作ってもラーメンですよ」と反対され、そのまま8年の歳月が経っていました。
そして、無一文となった1957年(昭和32年)の同年中に、安藤百福さんはすべての事業から手を引きラーメン1本に絞ることを決断します。安藤百福さんは、中古の製麺機を購入し、中華麺の材料を自転車で研究小屋に運んで、様々な調合を試み、ラーメンの開発に没頭しました。しかし、周囲からは、落ちぶれた経営者夫婦の生活と見られており、麺の材料を入れたダンボールを持って外に出た安藤百福さんの妻が、友人にラーメンの製造をしていることを伝えると、「まぁ、社長夫人がそんなことをなされなくても・・・」と言われることもありました。しかし、周囲の冷たい眼差しをよそに、安藤百福さんは、新しい味ができるたびにラーメンを家族に試食してもらって感想を聞いており、家族の関係は、むしろ強まっていきました。
そして、苦難の末、48歳にして安藤百福さんは、インスタントラーメンの開発にこぎつけました。安藤百福さんは、東京のデパートで試食即売会を開き、チキンラーメンができる様子に感嘆の声を上げるお客さんの元、500食のチキンラーメンはすぐに完売し、デパートの追加注文も受けました。そのため、資金を集めて工場を立ち上げ、20人の新入社員も雇い入れて、本格的にインスタントラーメンの製造が開始されました。
とはいえ、当時うどん玉ひとつが6円(現在の貨幣価値で28円)だった頃、チキンラーメンは35円(現在の貨幣価値で160円)と割高感は否めませんでした。また、その物珍しさゆえに問屋からの抵抗も強く、「こんなけったいなもの、どないもなりません」と言われるましたが、その場で試食させて納得させていきました。
しかし、そんな流通関係者の懸念とは裏腹に、消費者の間では、インスタントラーメンを求める声が日増しに高まっていき、一気にブームに火がつき、「ある日、突然という感じで、工場の電話がけたたましく鳴った」後は、大阪の十三(じゅうそう)に建つ田川工場の前には、問屋のトラックが怒涛のように押し寄せるようになりました。
需要の拡大に応じ、高槻市に1万5,000平方メートル(東京ドームの約3分の1の広さ)ほどの広さの工場を立てましたが、それでも生産が間に合わず、2年間で第5工場まで増設しました。そんな中、社名も「サンシー殖産」から「日清食品」へと変更し、300人だった社員が800人を超えてもまだ足りず、募集を続けました。
以上のように、安藤百福さんのドラマは、失敗を乗り越えた後、40歳代後半にしてようやく、現在の成功への礎を築きます。
安藤百福のドラマ:カップラーメンの開発
安藤百福さんのチキンラーメンは、国内市場で怒涛の旋風を起こしました。しかし、いつまでも一人勝ちは続かず、インスタントラーメンを扱う会社は、すぐに300社にも膨れ上がりました。しかも、同じような製法の粗悪品だけでなく、パッケージまで同じにした偽造品まで出回る有様でした。特許を取得することで抵抗はしたものの、それも期限が来るまでの一時しのぎにしかなりません。
そのため、次に、安藤百福さんが目をつけたのは、海外でした。しかし、海外で売るには、一つの問題がありました。チキンラーメンは、丼ぶりと箸さえあればいつでも簡単にラーメンが食べられますが、西洋人はどんぶりと箸で食事をしないということです。そのため、インスタントラーメンの一番の長所が全く通用しませんでした。
1966年(昭和41年)、安藤百福さんは、実際にアメリカやヨーロッパを視察しながら、解決の糸口を探り始めることにしました。そして、アメリカの西海岸のスーパーマーケットで、販売契約のためにチキンラーメンを実演しようとしましたが、丼ぶりがなく、スーパーの従業員が代わりに紙コップを持ってきました。そのため、チキンラーメンを折って紙コップに入れてラーメンを作ったとき、安藤百福さんの頭に新商品のアイデアが浮かび、「紙コップには、こういう使い方があるのか。新しい即席麺は、紙コップのような容器に入れてみてはどうだろうか」と閃きます。
そして、新商品の開発が続けられ、1971年(昭和46年)、ついに、発泡スチロールの容器に入った新商品「カップヌードル」が誕生しました。カップラーメンは、100円(現在の貨幣価値で約220円)という、インスタントラーメンよりさらに高い値段でしたが、「食器を兼ねるカップ麺」はたちまち話題を呼び、1日で数万食が完売し、店には長い行列ができるほどでした。しかし、安藤百福さんは、その流れをあらかじめ予想しており、30億円を超える投資をして、3万1,000平方メートル(東京ドームの約3分の2の広さ)の土地を用意し、工場建設に取り掛かっていました。カップラーメンの開発者であったため、売上が伸びる以前に投資できるというアドバンテージを得たのでした。
また、カップラーメンは、物珍しいだけでなく、災害時などの非常食としても優れていました。さらに、社員のアイデアによって、自動販売機での販売も始まり、お湯の出る自動販売機の先駆けともなりました。
工場も、国内だけでなくアメリカにも作られて大量に流通し、さらに、ブラジル、中国、インド、オランダ、インドネシア、ドイツ、タイ、フィリピン、カナダと、カップラーメンは、「日本初の世界食」としてワールドワイドに普及していきました。
こうして、安藤百福さんの日清は、とてつもない大企業になりましたが、どんなに規模が大きくなり、会長職となっても、死ぬまで現場主義を貫きました。新商品はすべて味見し、その舌は社員から「ベロメータ」と呼ばれ、90歳を過ぎても宇宙食開発プロジェクトに着手しました。また、社会奉仕を重要視する精神も、変わることはありませんでした。1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災のときには、ただちにチキンラーメン号(正式名称は「キッチンカー」)を被災地に向かわせ、1週間で30万食あまりのチキンラーメンを無料配布しました。
亡くなる前年の2006年(平成18年)の夏には、「詳しくは話せないが、また新しいことを考えている」と語っていた安藤百福さんは、その翌年の2007年(平成19年)、亡くなる3日前は幹部とゴルフで18ホールを回るほどでしたが、1月5日の早朝に38度の高熱を出し、同日夕方、96歳で急性心筋梗塞で亡くなりました。
安藤百福さんが亡くなった後も、チキンラーメン号の社会奉仕活動は続けられ、2007年(平成19年)の7月6日の新潟県中越沖地震や、2011年(平成23年)3月11日の東北地方太平洋沖地震の際にも出動し、2011年の震災では100万食分のカップラーメンが提供されています。
安藤百福のドラマ:まとめ
安藤百福さんのインスタントラーメンのドラマは、多くの事業を行った後、最終的に無一文になったときから始まりました。また、日本初でグローバルに展開していった商品の中では唯一、個人一人で開発されたものであり、企業や開発チームが携わったものとして、高い評価を得ています。
安藤百福さん自身は、料理が好きだったわけでも、食品業界に長く携わっていたわけでもありませんが、大衆の求めるものを考えた結果、最終的にラーメンに行き着き、成功のドラマを納めています。そうゆう意味では、顧客のニーズに非常に敏感で、さらに、そのニーズを実現できる開発を全うできるほどの忍耐のある人物であった、と言えるかもしれません。